第三章 鬼 (三)
「いや、儂にも、わからにゃあでよ。ほんとに、わからねぇで。」
秀吉は、刺子の手袋をまた顔の前で振りながら、困り果てたように言った。
「そもそも、いかな精兵だろうと、こっから十数里も離れた岡崎なんぞ、いきなり陥とせるわけがにゃあで。そのこと、もちろん勝入斎 (恒興)殿も勝蔵も充分に、わかっておった。」
ふたたび、顔をしかめ、
「世間じゃ、この儂が、渋る両名に無理やり中入りを強いたなどと、まことしやかに謗る輩も居るようじゃが、わしゃ、断じてそんなことは、しとらん。あの中入り自体、両名のほうから儂に進言して来た策じゃ。そして、敵陣引っ掻き回して、適度な頃合いで撤収するちゅうのも、予め、両名から言うて来おったことじゃ。」
又助が、なにかを言いかけたが、思いとどまった。秀吉は、続けた。
「わしゃ、膠着しかかっちょるこの戦を揺り動かして、狸をひと叩きし、三介殿にお灸をすえるにゃ、それはいい手じゃと思った。夜中に、明かりを用いずに敵勢の横をすり抜け、後ろに廻る・・・難しい行軍じゃが、あの親子なら、やれると思うた。だから、治兵衛も付けた。」
「治兵衛?」
弥三郎が、眉を上げて尋ねた。
「おお、つい、癖で。また間違えてしもうた。孫七郎 (三好信吉)のことよ。治兵衛は、彼奴がまだ中村の農家に居った頃の呼び名じゃい。弥三郎さんの屋敷にも、昔、届け物をさせたことがあるでよ。」
秀吉が、頭をかきながら笑った。
急速な勢力拡張により常に人材不足の羽柴陣営では、新規に召し抱えられる若い家臣が増え、全体にやや統一感なき寄り合い所帯となっている。秀吉が、数少ない身内に箔をつけ身近に置くことは、このばらばらの新興政権に強い求心力をもたせる意味で、死活の大事であると言える。
「ああ、あのときの。確か、京名物の茶を届けてくださいましたな。笑顔の明るい、よき若党でござった。」
弥三郎は納得したように穏やかな顔で頷いた。届け物を受けたのは、たしか岐阜城下でのこと。当時すでに孫七郎は士分であったが、年齢はまだ幼く、実際に手配したのは彼についた傅役の田中久兵衛という男である。それを敢えて本人が届けたように言ったのは、もちろん弥三郎の咄嗟の心遣いである。秀吉も、それを察して微笑んだ。
「ともかくよ、孫七郎よ。総大将として孫七郎も付けた。なに、ひと暴れしたあと撤収してくる味方を収容して、安全に連れて帰るだけの役目じゃい。名目だけじゃが、青二才の大将にゃ、ちょうどいい塩梅の仕事じゃろ?」
そう言って、にっこり笑い、両名の顔を眺めた。
経験不足の身内に与えた総大将の役目が、ただのお飾りの箔付けに過ぎないという本音を、又助と弥三郎には隠さず、そのまま言った。
秀吉は、胸襟を開いていた。そして、こう続けた。
「ところが・・・あんなことになってしもうた。」




