第二章 猿 (五)
いわゆる小牧の陣は、この年、天正十二年の元旦に始まった。
前年、すでに柴田修理亮勝家を北之庄にて討滅し、織田政権の後継者としての野心を顕にしはじめた羽柴秀吉のもとに、紀伊の根来衆・雑賀衆が蜂起した旨の報が飛び込んできた。これはもちろん、織田信雄・徳川家康方の意を汲んだ彼らの、あからさまな牽制であり、陽動作戦である。
これに対応すべく出兵準備がなされる中、尾張にて新秀吉派と見なされていた津川良冬、岡田重孝、浅井長時の三家老が一斉に誅殺されてしまった。事実上、織田信雄による手切れの布告である。激怒した (または、そうする振りをした)秀吉は、すぐさま麾下の大軍の方向を伊勢に変え、威風堂々たる進軍を開始した。
同時に、木曽川北岸の美濃・大垣城より池田・森が電撃的な渡河作戦を決行し、またたくまに犬山城を陥落させた。しかし、森勝蔵長可の勢三千は、さらに南下して一里ほど南の羽黒の野に布陣し、そこへ迅速に近接してきた酒井忠次、松平家忠の勢にしたたか叩かれ三百の兵を喪い、ほうほうの体で退却する。
月末には秀吉の本軍がこの犬山城に到着した。呼応して徳川家康も、この真南、物見櫓からは指呼の間に望める小牧山城に陣し、両軍は極限の緊張の中、すでにそこへ在った信長時代のあまたの城砦や土塁、軍道などの強化・普請に狂奔する。
両軍あわせて十万を越えるであろう、この戦役に従事した兵どもは、その大半が戦闘には従事せず、築城や造作のために泥だらけで使役される人夫と化した。
もともとこうした土木工事を得意とする羽柴方以上に、歴戦の徳川方も、手際の良い迅速で必死の築造を行い、わずかな間に、濃尾平野の大地を引き裂いて、ふたつの大きなひっかき傷のような長大な要塞線が出現した。そして両軍は、そのひっかき傷のなかで息を潜め、無言のまま、ただ睨み合った。
戦線が大きく動いたのは、翌月の初頭である。四月六日夜半、密かに要塞線を発した池田・森の精鋭軍が、眼前の織田徳川連合軍の城砦線を迂回して南下し、直接、三河の岡崎方面を目指して進発した。森長可「鬼武蔵」が三千を率いて先鋒に立ち、池田恒興は兵六千を率いて続いた。さらに続いて堀久太郎秀政が三千で、そして後尾には、秀吉の甥、三好孫七郎信吉が八千の本軍を率いて続行した。
「三河中入り」と呼号されたこの長駆機動作戦は、防備の手薄な敵戦線の背後、本国をいきなり衝くという前例のない雄大な奇襲行であったが、もちろん、万を越える大軍が糧道も確保せずに道なき道を闇雲に突進しても、成功の見込みなど絶無である。この作戦の本質は、大胆な側面機動で、陣地線に逼塞する敵の心胆を寒からしめ、その布陣に動揺を誘うための牽制攻撃であった。
よって、陣を棄て慌てて移動する不揃いな敵の数軍を各個に撃破し、所与の目的を達したあとは、適宜撤収してふたたび陣地線に戻る、というのが事前の了解事項であったのだが、結果は、悲惨なものとなった。




