第二章 猿 (四)
「この犬山を奪えたのも、言ってみりゃあ、弥三郎さんのお陰みてえなもんよ。あまたの猪武者どものような単純な鑓働きではのうて、弥三郎さんはよ、ここ。ここで戦う。」
そう言って秀吉は、頭の横で指をくるくると回して見せた。
「それが、弥三郎さんの戦よ。鎧兜こそ着ちょらんが、敵地の懐深くに居るその立場は、戦場と同じくらい危ういわい。それを、やり遂げてくれた。まさに、そこらの武者まとめて一万人ぶんくらいの大功でよ!この藤吉郎がどれほど助けられたか!どんなに礼を申しても、尽くせぬほどの大手柄よ。」
秀吉はあらためて、感じ入ったように弥三郎に頭を下げた。
「勿体なや。勿体なや。それに、いささか大仰にお考えのご様子で。」
弥三郎は、相変わらずゆったりとしたものである。
「緒戦にて無傷でこの要害を奪えたのは、ひとえに勝入斎 (恒興)様の深き軍略、それに勝蔵 (長可)殿の果敢なる勇によるものでござる。拙者も、よもやこの木曽の大河を越え、ああもあっさり、この堅城を陥れられるものとは思っておりませなんだ。さすが、織田家中きっての精鋭部隊でござる。」
「万の大軍が一糸乱れず、ただ勝入斎殿の采配どおり動いたそうな。」
秀吉も、頷きながら言った。
「なまなかな熟練ぶりでは、ああはいかぬ。功を焦り、先駆け抜駆けしようとする輩が、普通なら次々と出てきて、ばらばらの渡河になってしまう。それを抑えるたあ、ほんに見事なものよ。」
「さよう。」
弥三郎が引き取って、
「池田勢は、他からさほど多く与力をつけられておらず、もう何年も同じ陣容で戦いを続け、しかもそのほとんどに勝ち続けてござる。常勝軍にて、しかも全く気の緩みなし。その練度の高さは、まずなによりも将星に寄せられる兵らの忠、そして日頃の鍛錬の賜物と申すべきでござろう。」
「しかし・・・勝蔵は、そのあと間違えた。」
秀吉は口の端に笑みを浮かべて、弥三郎の称賛に釘を差した。
「城を陥れたあと、なにを思うたか、城外を南に進み、不用意にそこへ陣した。」
「そして、襲われ申した。」
長らく黙って聞いていた又助が、口を挟んできた。
「密かに近づいてきた三河殿の伏勢に。世間では、功を焦った勝蔵殿の勇み足、と受け取る者が多いようですな。」
「その前に、勝ちに驕り、が抜けておるでよ。」
秀吉は、又助の気遣いを笑いながら付け足した。
「仔細はよ、ようわからんで。なにしろ、この犬山攻落を合図に、日ノ本をふたつに割った大戦のはじまりじゃ。儂も忙しゅうて、そのあと勝入斎殿にも勝蔵にも、とうとう会えず仕舞よ。そしてその数日後には、ふたりとも、枕を並べて討死してしもうたからの。」
「会心の大勝利のあとの、ふとした気の緩み。などと、訳知り顔に教えてくれる者がご家中に数名。」
又助は苦笑しながら、
「さりとて、その勝蔵殿の焦りの理由、さらにそのあとの中入りへと至った理由について。拙者に得心いくよう説明してくれた者はなし。今日はもしかして、御大将みずから、そのこと、お話くだされるのでございますかな?」
「いやいや。本当に、儂にもまるでわからにゃあでよ。そのこと、識るものはただ、あの親子のみ。まさに、死人に口なしじゃい。」
秀吉は、刺子布の手袋をした左手を振りながら、まじめな顔で言った。
古馴染みの二人は、この手袋の下の掌から、指が六本生えていることを知っている。秀吉は、生まれついての多指症であった。




