第二章 猿 (三)
羽柴筑前守秀吉は、旧知の間柄である太田又助に、隣に座る祝弥三郎がこれまで果たした大きな役割について、上座から懇切に説明してみせた。
弥三郎は、総見院信長が存命の頃より、稲葉宿にて五百貫文の領地を拝領している。同じ時期に活躍した他の将星たちに較べれば大した身代ではないが、稲葉宿は、東海道と東山道を繋ぐ美濃街道のちょうど中ほどに在る交通の要地である。そして美濃街道こそ、尾張と美濃を縦貫する、日ノ本でも有数の重要な脇街道であった。
織田家がかつて頻繁に行った軍事動員にも、日々の商人たちの活発な経済活動にも、この街道は欠かせないものである。そして弥三郎は、自領に居ながらにして、美濃街道を通り過ぎる人や物の動きにすべて目を光らせることができ、また当然、街道の伸びるあちこちの先に、利害や義理で結びついた、濃密な人の繋がりを持っている。
信長が、もっとも信頼のおける、しかし家内でその存在の全く目立たぬ弥三郎をこの要地に置くことは、もちろん、それなりの意味があることであった。そしてその、弥三郎の帯びる密やかな役割を察知していた秀吉は、内々に連絡を寄越し、弥三郎を信頼して、その身代や身分を遥かに越える重責をかずかず託したのである。
つい半歳ほど前まで、尾張国一円は敵方・織田信雄の所領であり、当然のこと弥三郎も信雄の家臣ということになっていた。しかし、彼は実質的には秀吉に通じ、その意を汲んで、街道各地の武将や寺社勢力、有力商人などに密書を回送し、敵の首領のお膝元で、親羽柴勢力の扶植にせっせと貢献していたのである。
なかでも弥三郎の為したもっとも大きな仕事は、真偽不明の密書や噂を街道沿いの各方面にばら撒くことで、織田信雄と、付けられていた三人の家老との仲を決定的に裂いたことである。信雄・家康連合軍が秀吉と開戦するに先んじ、これら三家老は揃ってあえなく信雄に誘殺されてしまった。
そしてまた同時に、別の大きな働きをした。秀吉からの誘降の密書を、木曽川の向こう側、大垣城に陣していた織田家宿老・池田紀伊守恒興のもとに届けたことである。恒興は、織田家最古参の将の一人として、実際に領した石高・貫文以上の声望を博する名士であった。また彼のもとには、家中きっての勇将といわれる「鬼武蔵」こと森勝蔵長可が居り、この二人は強固な、義理の親子関係にある。
どちらかといえば親信雄派と目されていた中立勢力の彼らを、数万の兵を含め、事前にまるごと自勢力に取り込んだことは、羽柴方にとって極めて重要な外交的勝利であったといえる。もちろんそれは、羽柴筑前守秀吉の傑出した調略能力ゆえであったが、この連絡・交渉にあたって密かな連絡窓口として機能した弥三郎の功績も、破格のものであった。
ただし、その必死の偉功は、いわば歴史の闇に埋もれ、世にはいまだ全く知られていない。




