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『十七年目の、夏』  作者: 小椋正雪
15/25

第15話:秘密の花園と少女

「こんにちはー」


 ようやく残暑が抜けて、ほっとしたところに中間試験。

 そしてそれを乗り越えた試験休みの日、わたしはわたしが通っていた幼稚園に顔を出していた。


「はーい」


 応対に出てくれたのは、わたしの恩師、藤林杏先生。


「あら、汐ちゃんじゃない。どうしたのよ?」


 答えの代わりに、わたしは持っていたタッパーを差し出した。

 中身は、クッキングペーパーで包んであるシナモンクッキーである。


「ちょっと作り過ぎちゃって。御裾分けにきました」

「どれどれ……うわ、良い焼き色ねえ」

「古河パンの竈を借りたんです」

「なるほど、本格派ってことね――ひとつ、いい?」


 どうぞ、とジェスチャーでわたし。


「……うん、美味しい。やるわね、汐ちゃん。これなら良いお嫁さんになれるわよ」

「ありがとうございます」


 そう、わたしがお礼を言った時だった。

 ズドドドドドド……とすごい地響きがした。

 同時に何か、黒い影が一直線に――、


「汐ちゃん!」


 藤林先生の注意が飛ぶよりも早く、わたしはそれを避ける。

 わたしに飛びかかってきた影はそのまま突き進み――園児が作ったままにしたとおぼしき砂山に激突してそれを崩壊せしめた。


「うわ……」


 思わず声を漏らすわたしに、


「大丈夫よ。いつものことだから」


 と、藤林先生。

 事実、崩れた砂山からゆっくりと出てきたそれは、まるでなんともないように身体を振るい、纏わり付いた砂を払い落としている。


「ゴフ~」


 そう鳴いて、今度はゆっくりとわたしの足元に寄ってきた黒い影は、藤林先生の猪、ボタンだった。


「お久しぶり、ボタン」

「ゴフ~」


 ちょっと見ないうちに、また大きくなったような気がする。


「ゴフゴフ~」

「ボタン、乗っていいって」

「ゴメン、今日はちょっと無理」

「そうね、その短いスカートじゃ丸見えね」


 そう言って、ククク……と笑う藤林先生。


「懐かしいわ。あの頃はあんなに小さかったのに、ちょっと見ないうちに大きくなっちゃって」

「この前、一緒に海に行ったじゃないですか」

「うん、まぁそうなんだけど。でもここに汐ちゃんがいるとね、そう思えてきちゃうのよ」


 なるほど。

 そう思って回りを見回してみれば、自分の視線が随分高くなっているのがわかる。

 幼稚園の建物は言うに及ばず、園庭にある遊具をみても、それがよくわかる。

 もっとも、あの頃あった遊具は半分以上が新しいものになっていて、残りはペンキで色が塗り替えられていたけれど。


「ゴフゴフゴフ~」

「あ、ボタン、無視してごめんね」


 わたしの周りでドコドコと足踏みををするボタンにそう謝ると、


「忘れられて怒っている訳じゃないのよ。ちょっと運動不足なの」


 と、藤林先生。


「そろそろお散歩に連れていかないとね」

「じゃあ、わたしが行きましょうか?」

「いいの? 結構ハードよ?」

「ボタンには、長い間背中に乗せてもらった恩もありますし」


 それに、これからの予定は特にないのだ。


「そう……じゃあ、お願いしようかしら」

「ゴフフ~」


 ボタンが跳ね回る。




「ぶっとい綱ですね……」

「これくらいでないと千切れちゃうのよ」


 大形犬のそれよりも、二回りは太いボタンの散歩用ロープを手渡され、わたしはボタンと一緒に散歩を始めた。


「ゴッフフゴフフゴッフフゴフフゴッフフゴフフゴッフフゴフフ――」


 ボタンは御機嫌らしい。

 まるで鼻歌のようにリズムを取って鳴いている。


「ゴーフゴーフゴフフフフ~ゴーフゴーフゴフフ~」


 御機嫌なのは良いが、問題はその引っ張る力だ。

 ちょっと前まで背中に乗せて貰っていたから強いだろうとは思っていたが、両手でしっかりと掴んでいないと、あっと言う間に振りほどかれそうになる。

 だから、わたしのほうはハミングまじりでお散歩といった具合にはならなかった。

 散歩のコースはだいぶ山寄りになる。

 昔より緑が少ないから、どうしても遠出になっちゃうのよね、と藤林先生はぼやいていたが、やっぱり猪だけあってボタンはそちら側を歩くことが好きらしい。

 ちなみに散歩コースとなる山側の道は、お母さんのお墓がある霊園とは反対方向だった。

 方向が合っていれば少し寄り道してお参りに行こうかと思っていたのだが、今回は断念する。


「ゴーフゴーフゴッフッフ――」


 今、歩いているのは、閑静な高級住宅街。

 こういった場所は、大抵駅にも自然にも程よい距離で行けるように調節されているので、自然と通ることになる。


「ゴフィ?」


 急に、ボタンが立ち止まった。


「どうしたの? ボタン」


 わたしも立ち止まる。

 見れば、ボタンは耳を前方にそろえて、何かを聞いているように見える。

 少し気になって、わたしも耳をすましてみた。


 ――風の音に交じって、歌が聞こえる――。



「ゴフッ!」


 いきなりボタンが駆け出した。


「ちょ、ちょっとボタンっ!」


 わたしはあわてて両脚をふんばり、抑えにかかる。

 が、ここで気付いたことに、ボタンはさっきまでわたしに気遣って幾分セーブしてくれていたようだった。

 というのも、今現在全力で抑えにかかっているわたしが、てんで抵抗になっていない。


「ストップストップ! 止まってボタン!」


 多分、聞こえていない。

 ボタンはさっきわたしと再会した時のように一直線に突進していた。程なくして、目の前に見えたのは――生け垣。

 ボタンは減速する気配を見せない。


「嘘でしょ~~~~~!」


 わたしの叫びとともに、ボタンは生け垣に突入した。




 その後は目茶苦茶だった。

 私有地を二つばかり越えたような気がするのだが、目の前に迫る葉っぱやら小枝やらを避けるのが精一杯で、周りに注意を配る事など、とてもではないができなかった。

 急に開けたところに出る。それに合わせて、ボタンが急停止した。

 わたしはそのまま前につんのめって、ボタンの上に覆いかぶさるようにして倒れ込んでしまう。


「いてて……」


 顔をわずかに上げてみる。

 きれいな庭だった。

 もっと正確に言うなら、きれいな庭になろうとしていると言うべきか。

 その庭は、修復途中だったのだ。


「ゴフ~……」


 今になって、自分が何をしたのか気付いたのだろう。

 ボタンが済まなそうに鳴く。


「いいのよボタン。油断をしていたわたしもわたしだし……」


 そう言って、よっこらせと立ち上がった時、わたしは気付いた。

 ――わたしがこの庭を修復途中と判断したのは、いくつかの理由がある。

 ひとつは、芝生がきれいに刈り取られていて、しかも刈り取った芝が一カ所に山積みになっていたこと。

 これは、つい最近まで伸ばし放題だったことを示す。

 ひとつは、庭にある白い鉄製のテーブルと椅子から、真新しいペンキの匂いがすること。こ

 れは塗り立てでないとしない匂いだ。

 ひとつは、園芸道具が丁寧に置かれながらも出しっ放しになっていること。

 普通、園芸道具を出しっ放ししておくことはない。

 つまりは、誰かがそれを使っているということを指す。

 そう、その庭は修復途中である上に、今現在も進行中だった訳だ。

 なのに、わたしは立ち上がるその時まで全然気づかなかった。

 ――少しばかり戸惑った瞳で、ひとりの女性がわたしを見つめていたことに。



「……ええと」


 困惑しているのかしていないのか、あまり感情の読めない声が、おずおずとわたしにかけられる。


「すみません。この子、暴走すると直進しかできなくて……それを止められなかったんです。ごめんなさい」

「ゴフ~」


 わたしとボタンが同時に謝る。

 女性は、それに対して良とも否とも反応せず、


「……びっくりしたの」


 ただ、驚いていた。


「庭から入ってきた人はあなたで二人目」


 そして、ボタンを見て


「あなたは栄えある一匹目なの」

「ゴフ~」


 いや、ボタン、喜んじゃ駄目だって……。


「ええと……」


 再び、女性は何やら考え込むと、


「ひらがなみっつでことみ。呼ぶ時はことみちゃん。学会の時は、一ノ瀬ことみ」

「え?」

「私の名前」


 あ、そうか。ということは……、ん? 学会? 一ノ瀬?


「もしかして、宇宙物理学の一ノ瀬――博士?」


 再び、こくんと頷く。

 前に地方紙の記事で読んだことがある。

 この街の出身で、外国で活躍している宇宙物理学の新鋭、帰国とかなんとか。

 ――すごい人なんだけど、なんか、私が持っていたイメージと随分異なる。


「わたしは岡崎汐。こちらは猪のボタン」

「ゴフ~」


 わたし達が(といってもボタンは喋られないからわたしが代りに)そう自己紹介すると、ことみさんは、


「?」


 と、少し考え込んで、


「岡崎?」

「……? そう、ですけど」


 何で顔を赤らめるんだろう。


「素敵な名字なの」

「あ、ありがとうございます……」


 名前はともかく、名字で褒められたのははじめてのような気がする。

 にしても、普段接している人達とテンポが違うので、うまく会話が続かない。


「あの、ことみさん――ことみちゃん」


 さんのところで、心なしか寂しそうな貌をしたので、言い直す。

 すると、ことみちゃんは嬉しそうになに? と小さく首を傾げた。


「この庭を、独りで?」


 こくんと頷く。

 よく見てみれば、ことみちゃんの服装は、服こそ庭仕事に似合わないワンピースだったけれども、厚手の園丁用エプロンを着け、軍手をはめていた。


「今日で五日目。上手く行けば、日没までに元通りになりそう」


 と、ことみちゃん。

 元がどういう状況だったかは、大体わかる。

 あの芝の長さや、雑草こそ抜かれているものの、小石だらけの花壇を見れば、一目瞭然だ。

 相当酷い状況だったものを、ことみちゃんは五日もかけて、元に戻そうとしている。


「ゴフ~」


 ボタンが、私の脚に鼻を押し当てた。

 見下ろしてみると、わたしの脚から離れて、じっとこちらを見上げている。

 それはつまり、ボタンも望んでいるわけで。


「ことみちゃん」


 ? と、首を傾げる彼女に、


「お手伝いして、いいですか?」


 とわたしは訊いた。

 今日は色々お手伝いをする日と、勝手に決めて。




 花壇と庭を隔てるための煉瓦をひとつひとつ、慎重に組上げていく。

 ずれが生じると後々大きくなって、最初からやり直しになるからだ。


「ゴフゴフ~」


 その花壇の中ではボタンが得意の鼻を使って、土を耕していた。


「猪はその鼻で田畑を荒らすから、農家の人には嫌われているけど――私はとても助かってるの」


 鼻歌を歌いながら――風に乗ってきたあの歌だ――高枝切り鋏で立木の枝をちょん、ちょん、と落としていたことみちゃんが、そう言う。


「ふ~っ」


 もう季節は秋だけれど、直射日光の下では結構暑い。

 わたしは、ことみちゃんから借りた軍手で額に浮いた汗を拭いた。

 ちなみに、エプロンも拝借している。


「ことみちゃん、こんな感じで良いのかな?」


 と、わたし。

 いつの間にか、同世代の友達に話しかけるような口調になってしまっている。

 多分、『ことみちゃん』と呼んでいるせいだろう。

 そう呼ぶように頼んだ当の本人は、じっと煉瓦の仕切を見て、


「うん、ぴったり」


 と言って笑った。


「それにしても……」


 大量のゴミ袋に詰まった芝やら枝やらを見て、わたしは呟く。


「二人と一匹でやると、あっさり終わるものね……」

「労働時間は、作業量が不変の場合、人数が増えれば増えるほどそれで割る以上に短縮できるから」


 と、ことみちゃん。


「でも、こんなに早く終わるとは思っていなかったの。ありがとう、汐ちゃん、ボタンちゃん」


 庭の修復作業は、今言った通りあっけなく終わっていた。

 後は、ボタンが耕した花壇に花の種を植えるだけである。


「ちょうど佳い時間だから、お茶にしましょう」

「あ、わたし手伝う」

「いいの。汐ちゃんはお客様でもあるから、ちょっと待ってて」


 そう言って、ことみちゃんは家の中に引っ込んだ。


「ゴフ~」


 花壇を耕し終わったボタンが戻ってくる。

 その鼻が土まみれだったので、わたしは庭のホースを借りて綺麗に洗ってあげた。

 そうこうしているうちに、お盆の上に紅茶のセットを載せたことみちゃんが戻ってくる。


「汐ちゃん、テーブルと椅子のペンキ、乾いてる?」

「ん? ちょっと待って」


 わたしは、テーブルの表面をじっとのぞき込んだ。

 文化祭などの経験で、ペンキの乾き具合は見るだけでわかるようになっている。


「まだ無理みたい」

「じゃあ、こっちに来て」


 そう言って、ことみちゃんは部屋の窓を全開にして、即席の縁側を拵えた。

 そして、お盆を器用に膝の上に載せると、カップに紅茶を注ぎ込む。


「ボタンちゃんには、ミルクなの」


 そして、お皿に入ったミルクを庭に出るときのたたきに置こうとしたが、さすがに体勢がきつそうだったので、代わりにわたしがそのお皿を置いてあげた。


「いただきましょう」

「いただきます」

「ゴフ~」


 3人で唱和する。


「あ、美味しい」

「とっておきのお茶だから」

「ゴフゴフ~」


 鼻先を白くして、ボタンも美味しいと意思表示。そんなわたし達に、ことみちゃんはほわっと笑って、


「――とっても不思議。急にお友達ができるなんて思わなかったから」


 カップを傾けながら、そう言った。


「そういうものじゃないかな? 事前に友達が出来るって、絶対に予測できないと思うし。気が付いたら、友達同士になって居るんだと思う」


 と、わたし。


「……そう言えば、そう。前のお友達も汐ちゃんみたいに庭から来たの」


 ――あ、なるほど。だから二人目、か。


「ちょっと待ってて」


 そう言ってことみちゃんは立ち上がり、二階へと上がっていく。

 程なくして、一冊の本を持って戻ってきた。紙の色をみる限りかなり古く、しかも表紙がボロボロになっている程よく読み込まれている本だ。


「ご本、好き?」

「うん」


 読書は基本的に好きだ。家でも学校でもという訳ではないが、人並みには読んでいると思う。


「大好き?」

「うん」


 というのも、古河家には意外と本が多く、わたしが一時的に預けられていた時、外には滅多に出ずに本を読むか玩具で遊ぶかのどっちかしかしなかったらしい。

 おそらく、そういった部分が下地になっているのだろう。


「それじゃ……」


 そう言ってことみちゃんは本を開き――、


「『あそこには帰れないんだろうか、ぼくは』」


 ……? 一瞬、思考が交錯した。

 いきなり言われた言葉に対する、疑問と、既視感。

 それでも、わたしの口から言葉が紡がれていく。


「『わかってるんだね、あそこから来たってことが』」


 そうだ。

 これは、前に読んだことがある。

 わたしに確信に構わず、ことみちゃんは、


「『ああ、わかる。でも、ほんとうにあの街のどこかに住んでいたわけじゃない』」

「『そう。すごいね』」


 それは、去年の演目の原作だった。


「『つまり、あっち側の一部だったってことがわかるんだ』」

「『でもね、旅立ったんだよ、遠い昔に』」


 そして、古河家の本棚にもあったものだ。


「『そうだね。そんな気がするよ』」

「『でも遠い昔はさっきなんだよ』」


 何より、この本を原作に劇を作ろうと言ったのは、他でもないわたしだったのである。

 一年前、劇の脚本になりそうな原作を部員各自で探してくるということになって、わたしが古河家の本棚を物色していたときに見つけたものだった。


「『それも、そんな気がしてた』」

「『つまり、言いたいこと…わかる?』」

「『わかるよ。よくわかる』」


 そこで、ことみちゃんはパタンと、本を閉じた。


「……すごいの」


 吃驚したように、わたしを見る。


「実はわたし、演劇部なの」


 にっと笑って、わたし。


「しかも、その部分を喋った役。吃驚した?」


 そう訊くと、ことみちゃんは素直にコクンと頷いた。


「ちょっと、心配だったの。ベストセラーだけど、古いご本だから」

「そうね、ちょっと古かったかも」

「ゴフ~」


 自分は知っていたぞとばかりに、ボタンがそう鳴く。

 わたし達は、お互いの顔を見合わせて笑いあった。


「前にもね、こういうこと、したことがあるの」


 笑顔を消さず、それでも懐かしそうにことみちゃんは続ける。


「汐ちゃんみたいにすぐは出来なかったけど、二人で練習して、出来るようになって――楽しかった」

「わたしより前に出来た、友達ね」


 と、わたし。


「どんな人なの?」

「うん……すごく元気な男の子」

「へえ……わたしも友達になれるかな?」

「大丈夫。とてもいい人だから」

「ここには良く来るの?」


 もしそうなら、庭の修復ぐらい手伝ってあげればと、言ってやるつもりだった。


「……ううん。もう二十年は来てない」


 ――その、半端じゃない数字に、わたしは思わず息を止めてしまった。


「仕方がないの。あの時、色々あったから……」


 綺麗に修復された庭を、遠い目で眺めて、ことみちゃんはそう言った。


「聞いてくれる? 汐ちゃん」


 わたしは、はっきりと頷いてそれに応えた。




「……ごめんね」


 ことみちゃんは、そう言って話を締めくくった。

「……ううん」


 首を強く振って、わたしは否定する。

 正直、怖い話だった。もしわたしからお母さんだけじゃなくおとーさんもいなくなったら……そう思うだけで、ぞっとしてしまう。


「でも、まだ待っているんだ。だから……」

「ううん……」

 今度は、ことみちゃんが否定した。


「最近になって気付いたの。もう、いくら待ってもこないんじゃないかって」

「そんなこと――」

「だから、この庭を元に戻そうって思ったの」


 新しく、やり直すために。

 言外にそう感じさせる口調で、ことみちゃんはそう言う。

 陽が、傾き始めていた。

 少しずつオレンジ色に染まっていく景色の中、ことみちゃんはわたしを見ている。


「そうなの……かな」

「?」

「今、ことみちゃんはそう思っているかもしれないけど、心の奥では――」

「深層心理?」

「うん、それ。つまり、いつか戻ってくるかもしれないから、この庭を元に戻したんじゃないかな」

「…………」


 ことみちゃんは答えない。

 ただただ、考えている。おそらく、わたしの言葉の意味を吟味しているのではないだろうか。


「……………………」


 なおも考える、ことみちゃん。なにやら煮詰まっているようである。


「ことみちゃん」

「なに?」

「その、友達なんだけど」

「うん」

「忘れたりは、しないでしょ?」


 こくりと、頷く。


「うん。私の、大切な人なの。だから――忘れない」

「そっか……」


 わたしは、オレンジ色の空を見上げた。

 つまりは、そう言うことなのだろう。

 ことみちゃんは自分で気付いていないだけで、その友達を『待つ』から、『迎える』に変えたのだ。


「その人、幸せだなあ。わたしなら、一発殴っちゃうのに……」


 思わず、口に出てしまう。


「それは駄目。きっと、あの人にも事情があると思うの」

「それにしたって、ひどいと思うけど。なんて名前なの? その人」


 わたしがそう訊くと、ことみちゃんは少し頬を赤らめて、うつむいてしまった。


「えっとね――」


 ちょっと照れ臭くなって、わたしはわざと伸びをして視線をそらす。


「――汐ちゃんと同じ名字」


 ごき。必要以上に力が入ったわたしの背骨が、そんな音を発てた。


「――岡崎、朋也くん」


 真っ赤っ赤になってさらにうつむく。

 夕陽に染められた顔をさらに赤くして、ことみちゃんは懐かしそうに笑う。

 その隣りで、わたしは顔をピカソにしていた。




「おー、遅かったな……一体どうした? 汐――」


 おとーさんが驚くのも無理はない。

 ことみちゃんの家を辞して、ボタンを藤林先生の元に帰し、そして家に着くまで、わたしは全力疾走を続けていたからだ。


「――まったく、これじゃ殴るに殴れないじゃない」

「いきなり物騒だな、オイ」

「そんなことはどうでもいいの。それより一ノ瀬、ことみって知ってる? 呼び方はことみちゃん」

「一ノ瀬? ことみ? ……はて?」


 あー、もう、やっぱり忘れてるっ!

 ――いや、まだ、同姓同名の可能性がある。

 わたしは自分の頭を冷やすため、大きく深呼吸をすると、


「おとーさん、これから言う話、よく訊いてね」

「あ、ああ……」


 わたしは、庭の光景を説明していく。

 広い芝生に花壇があって、白いペンキで塗られた鉄製のテーブルと椅子があって、そして、

 ひとりの女の子がいて。

 一ノ瀬ことみという少女がいて。

 岡崎朋也という少年を、今も待っている。

 わたしが語り終わる頃、おとーさんは片手で顔を覆っていた。


「もう一度訊くけど……」

「いや、その必要はない」


 顔を覆ったまま、おとーさんはそう答える。


「それじゃあ、わたしが言うこともわかるわよね?」

「ことみに会いに行け――か?」

「当然!」


 仁王立ちでそう宣言するわたしに、おとーさんはちゃぶ台に座ったまま、


「それは出来ない」


 と、完全に予想外なことを言った。


「な、なんで――!」

「二十年以上前の話だぞ!? いまさら……」

「二十年も百年も関係ない! 相手は――ことみちゃんは生きているでしょ!」


 びくりと、おとーさんの肩が震えた。


「――その、渚の件もある」

「このことでお母さんが怒るとしたら、それはことみちゃんに会いに行くことじゃなくて、背を向けることにだと思うけど。違う!?」


 胸の中で、何かが燃えているように感じる。

 それが貌にまで影響を及ぼして、真っ赤になったわたしを、おとーさんはじっと見つめていた。


「……そうだな。その通りだ」


 そう言って、ゆっくりと立ち上がるおとーさん。


「汐、住所を教えてくれ。お前のことだから、控えてないってことはないだろ?」


 ――もちろん。わたしは、スカートのポケットから住所を走り書きで書き留めたメモをおとーさんに渡した。


「それで、場所、わかる?」

「番地さえ知っていれば問題ない。こちとら街が相手の仕事なんでな」


 わたしが書いた一ノ瀬邸の住所に目を落とし、おとーさんはそう言った。


「出かけてくる。場合によっては遅くなるから、夕飯の時間になったら勝手にやっててくれ」

「了解。行ってらっしゃい、おとーさん」


 片手を挙げて返事の代わりとし、おとーさんは出かけていった。

 それを見送って、わたしは疲れたように――いや、実際に疲れていたので座り込んだ。

 目を閉じて、想像する。

 おとーさんは、どうことみちゃんと再会するのだろうか。

 おとーさんのことだから、わざわざ庭から入ってきそうである。

 そして堂々と庭を横切って、窓をノックするに違いない。

 ことみちゃんはどうだろうか。最初は驚いて、何もしないかもしれない。

 でも気になって、そっと窓のカーテンを捲って外に立っている人を確認するだろう。そして――

 そして、わたしがまだ見たことない笑顔で、おとーさんを迎えるに違いない。


 疲労が眠気に変わって、わたしはそのまま夢の中に落ちていった。


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