第六話
~大戦暦0年4月25日~
カツン……
杖を床に突く音が響いた。
カツン……
部屋の真ん中ではカジカが目を瞑り、椅子に座ったまま杖を突いている。
カツン……
「ねー。カジカ~」
ウィーネの声で、規則正しく響いていた硬質なリズムが破られた。
「もう! ウィーネったら! 邪魔しないでよ!」
「禁忌魔術を簡単に使うほうが悪いですわ。発動したら最後、止められなかったらどうするんですの?」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃないですわ! 危なくて、周りの人や、術者本人が大きな被害を受けるから禁忌になってるってことを、よぉーーーく理解していただきたいですわ」
ウィーネはカジカの鼻を両手でつまんで、魔術を妨害している。
ウィーネの言うとおりなのだ。
カジカが行っていたのは、自らを大木に変えて、大地からの膨大なエネルギーを取り出すという魔術だ。そのため専用の杖(国宝級の危険物なのだが)を、床に叩いて自分と大地を同化する作業をしていたわけだが、発動したが最後、誰にも止められない禁忌魔術だ。
「わかってるよ。あーあー、飽きたなぁ」
大あくびをする。仰け反って身体を伸ばすカジカの鼻の上に、ウィーネはちょこんと座る。
カジカの鼻は座りやすいらしい。潰れてはいなく、形のよい鼻なのだが、高さがちょうどいいのだ。
「カジカ。昨日ファルシーナがもってきたあの紙束って、学校からの連絡じゃありませんの?」
ウィーネを落とさないように、そのままの体勢のまま杖を器用に机に立てかける。
「みたいだね。授業の出席はもういいから、試験だけは受けてくれって」
「いつものことですわね」
「だね」
「だね、じゃありませんわ。不良貴族」
「不良貴族かぁ。ミルゼ小兄様と旅に出たいなぁ」
「ああ見えても、ミルゼには目的があるみたいですわ。ここで遊んでクダ巻いている誰かさんとは違いますわ」
「目的なんてもんじゃないよ、お嫁さん探しだよ、きっと」
この話は終わりとばかりに、カジカは起き上がった。ウィーネはすべり落ちるものの、自慢の羽をきらきら羽ばたかせて定位置である頭の上へと舞い戻る。
「最近、フランツとお父さんとはどうなのですの?」
「ん……前に会ったのはいつかな。覚えてないや」
貴族の家ではよくあることなのだが、彼らは家族的な繋がりが薄い。カジカの家であるフルート家ではそれが顕著で、食事を一緒にとったりすることがほとんどない。
加えて、教育や世話は専門の召使がつくため、同じ家にいながら顔をあわせることがほとんどないこともざらだ。
「あの人たちは、ぼくのことをいないものとしてるから……」
「ふぅーん……」
すでにフルート家の跡は、長兄のフランツが継ぐことが決まっている。
次兄であるミルゼは放蕩息子で、家に帰ること自体が稀だ。
国中を旅し、たまに国外へ行ったりする。貴族なのに平民に混じって、一人で旅するものだから始末が終えないと父に言われ、半ば放逐状態である。
しかし、カジカは、お家騒動を避けるために、ミルゼが放蕩息子を演じていることを知っている。
家族の中でカジカと会話をしてくれるのはミルゼだけだった。たまに手紙をくれたりもする。貴族間の風評はすこぶる悪いが、カジカにとっては憧れの兄である。
長兄が跡取り、次兄は論外。カジカは跡継ぎのスペアであるが、スペア交換されることはまずないだろう。
長兄は健康体であるし、めったなことはほとんど起こらない時代だ。ゆえに、カジカの存在は、フルート家の空気だ。
「だから、学校なんか行かなくても生きてゆけるし。それに、図書館で学んだほうが実になるんだ。図書館で働いてくれるみんなと一緒に仕事をして、生きて行ければそれでいい」
「あーらら。ぬるま湯にどっぷり浸かったお坊ちゃんの言うことそのまんま!」
「いいじゃないか!」
「悪いとは言ってませんわ。飲む打つ買うはやらないですし、魔術本の管理という仕事もこなすわけですから」
ウィーネはふふふんと笑う。
「でも、小さくまとまりすぎて、わたくしは退屈ですわ。せっかく何百年かぶりに呼んでくれた魔士が……ねぇ?」
ウィーネはふぅと息を吹き出す。それに伴って、小さな水の輪がふわふわと宙を舞った。
「もったいないですわぁ」
何百年ぶりというのは、喩えではない。
実際、ウィーネは千年以上生きている古い精霊だ。
「ぼくにはやらなきゃいけないこともないから、いいんだ。ただ幸せに生きて、寿命で死にたいだけだよ」
何百年という時の中で、ウィーネを呼び出したものは大勢いた。
ウィーネを戦争の道具として呼び出す者。医療の助手として呼び出す者。ただ単に愛玩物にしようと呼び出そうとする者と目的は様々だ。
しかし、今回ウィーネを呼び出したカジカは何の目的もなく呼び出し続けている。
大抵、精霊を呼び出すときには、何か一つの仕事をさせて、還元するのが常識だ。
そうでないと、ウィーネを維持するだけの魔力が莫大であるために、魔士の力自体が枯渇してしまうからだ。
目的もなく、ただウィーネを呼び出し続けるカジカは、今までの者たちとまるで違う。
抜けているのか、大物なのかがわからないカジカの性格を好んでいるからこそ、ウィーネも地元に還らずにずっといるわけだが、このままではさすがに飽きてくる。
「つまらないですわ! つまらないですわ!」
カジカの鼻の上でバタバタする。
そのとき、フルート家の者でしか開けられない扉が開いた。
カジカははっと顔を上げて、扉のほうを向く。
そこから現れた男を見て、顔をこわばらせた。
椅子から折り、すぐさま立て膝を突いて頭を垂れた。
カジカよりも十歳ほど年上と思われる男は、尊大な態度で口ひげを撫でた。
「フランツお兄様。わざわざこんなところに足を運んでいただき……」
「黙れ」
フランツは、カジカの挨拶の言葉を一蹴したあと、嫌味ったらしい態度でハンカチを取り出した。
「臭い……なぜこの俺がこんな場所へ……」
ハンカチで鼻を覆い、顔の前で手を振って臭いを払うような仕草をする。
「申し訳ありません。インクが気化するときに出る臭いで……」
「違うな。お前が臭いのだ」
挨拶代わりに侮蔑の言葉を投げつつも、フランツの目は恐怖に染まっていた。
カジカの長兄であるフランツもまた、貴族であり、魔士の端くれだ。しかし、その才能はあまりなく、貴族の長兄であるというだけが彼の矜持を支えている。
だが、不幸にも魔士の端くれであるゆえに、カジカの強大な力を嫌でもわかるのだ。フランツは、クラスのボンボンとは違い、カジカの力をより根源的に知ってしまっている。
頭を垂れたカジカの隣で、衣の裾をつまむような仕草で挨拶をするウィーネの存在が、どれほど特異なものかを嫌というほどと理解している。
フランツにとって、カジカは得体の知れない力を秘めた下位の跡取り候補。
それゆえ、カジカを弟として接することもない。いや、出来ないのだ。恐怖がフランツの足元を不確かなものにする。
先ほど取出したハンカチも、本当は、ウィーネを見ないようにするために、視線を覆うことが目的なのだ。
「父上の命令といえど、完全密封のこの扉を開けるために、この俺がここまで来たことに感謝するがいい」
「ありがとうございます」
伏せた顔からは表情が読み取れない。
「明後日、サミフの建立記念式典が開かれる。我がフルート家は、式典に三名出席ということになった。ミルゼのやつは何を考えているのか、今は供もつけずに旅に出ている。そこでお前だ。人数合わせに来い。以上だ」
用件を吐き捨てるように伝えたあと、フランツはきびすを返した。
カジカの返事を待たずに、足早に立ち去る。フランツは今にも走り出しそうではあったが、なんとか自制をしているようだった。
貴族の教育をみっちりと叩き込まれたその身体は、想いとは裏腹に、品格を保つように働いたようだった。
フランツがいなくなると、カジカはのそのそと立ち上がり、開けっ放しになった扉を、一言二言、魔言をつぶやいて閉めた。
「むきー! なんなのですの! あの態度! 臭いって! よっぽどフランツの下手な香水のほうが鼻につきましてよ! カジカが言えば、今すぐにでもすり潰してやりますわ!」
お上品に固まっていたウィーネは、足を大きく開いて、地面をどすどすと踏みつけた。怒りにそまったウィーネの体からは、すこしだけ蒸気が上がっている。沸騰寸前だ。
「いいよ。ウィーネ。いつものことだから。明後日の式典かぁ……ミルゼ小兄様が今まで行ってたんだけど。行くのやだなぁ……」