第五話:異変
~大戦暦0年4月20日~
ナコ王国最北端ミアンヌ地方ベロニク子爵領、亡者討伐隊前線
「隊長……まだまだ寒いっすね」
若い兵士が、襟元を立てて隊長に話しかけた。
「引継ぎの隊が遅れているみたいだ。ったく、最近の討伐隊は緩みすぎだ」
「そうっすね」
「お前のことも含んでいるんだが」
「そうっすか」
ナコ王国ミアンヌ地方ベロニク子爵領は王国の中で一番北にある。他の領地と接するのは南側だけで、三方は海に囲まれている。
ここはミアンヌ地方の中でも最北端に位置する場所。これより北には酷寒の海が広がっているだけで、見る物は何もない土地だ。
針葉樹林が生い茂り、春だというのに小雪がちらついている。凍りついた大地は、人が歩くたびにガリガリと音を立てる。
獣の声一つ聞こえない静かなときが流れる。
「まだっすかね……」
交代を待ちわびる彼の所属する亡者討伐隊というものは、名前の通り、『亡者』を討伐する軍隊だ。
古い、古い、言い伝えがある。
悪いことをした人間の魂の行き着く先は、冥府と呼ばれる場所だと言われている。
そこは冥王ハードゥスが支配する場所である。
悪人の魂は冥王の試練を受けなければならない。そして、その試練の間に魂を浄化され、ふたたび大地に生を受けられるようになる。冥王は、やむなく悪に染まってしまった魂の嘆きを聞いたり、本当の悪人を大地に戻さないように留めたりしているという話だ。
地獄王やら冥府の王と呼ばれてはいるものの、三人の大王の中では一番慈悲深く、心やさしい王なのだと言う。
とてもいい人なので、他の二人の精霊王に半分騙された形で、今の職場にいるというもっぱらの噂だ。
『亡者』とは、時折、冥王の目を盗んで地上へ舞い戻って来る悪しき魂のことだ。
その魂は地上に出てくるときに、様々な姿形をとるが、共通して人間に対して害をなす。理由はそれぞれ。生前の欲望、恨み、そういった感情で夜盗まがいのものになってみたり、近隣の農作物を荒らしたりする。
『亡者』には実体があるのだ。
『亡者』が出現するポイントというのは大体決まっている。なので亡者討伐隊を組み、交代制で警戒をしている。近年は比較的数も少なく安全なので、兵士の訓練を兼ねてもいるのだ。
彼らがこのような辺境に来たのは、警戒の交代のため。これから毎日、『亡者』を見つけるための巡回と、山小屋の中で寒さに耐える仕事が待っている。
「来ましたよ、隊長」
そう言うと、遠くに人影を見た隊員は分厚い手袋をはめた手を、大きく振った。
「やれやれだ。これから一週間、仕事三昧ってわけだな」
ここから少し離れた場所にある小屋群でキャンプをして、『亡者』を探し出し、狩らねばならない。骨が折れる仕事を思い出し、隊長は隊員たちに気付かれないように、ため息をもらした。
「おーい!」
こいつ実戦は初めてだったな、と冷ややかな目で新入りを見つめた。
新入りは元気良く手を振り続けている。今から飛ばすと持たないぞ、と隊長は内心笑う。
しかし、新入りの声と、他の兵士達の話し声以外何も聞こえない。やけに静かだ。一週間の激務を終え、帰ってくる向こうの兵士たちは、それこそ元気良く返事をしてもいいものなのだが、まったく反応も示さない。
「おー……い?」
新入りが唐突に腕を振るのを止めた。他の兵士達も異常を感じ取ったのか、交代要員が来るはずの道の先を凝視した。
無論、隊長もその中に含まれる。
そして、次の瞬間、静かな山に隊長の怒声が響いた。
「構えろォ!」
とまどいながらも、隊員達は命令に従う。討伐隊は、たまに下級貴族が含まれるが、ほとんどは平民で、武器は刀剣の類だ。
各々使い慣れた武器を握り締め、来るときを待つ。
なぜ、という言葉は上がらなかった。
「ウォォォォォン」
まず耳に飛び込んできたのは地の底から這い上がるような唸り声。
続いて、数え切れない足音が総勢二十名の討伐隊へ向かってきた。
相手は十、二十・・・・まだだ。もっといる。
一個小隊では押さえ切れない数であることは間違いない。
「新入り! 全力で走れ! このことを砦へ知らせろ!」
隊長は血を吐くように言い捨てた。
一度に出会う数はニ~三体が常だった。
しかし、今日に限って、この数。『亡者』の大群はすぐそこまで迫ってきている。
隊員たちは一瞬にして自分達が死地にいることを悟ってしまったのだ。
新入りは引きつった顔で頷くと、躓きながらも懸命に走り去っていった。
自分達が生き残れるかという問いには、答えが出てしまった。あの新入りも自分達と変わらない生存率だろう。本来落ち合うはずだった前任者たちは、おそらく全滅しているのだから。
絶望的な状況。よく訓練された兵士達は、新入りを生き残らせるためだけに、この場に踏みとどまることを選ぶ。
「貧乏クジか」
彼らは新入りの頼りない後姿を見送ると、剣を振り上げて『亡者』の大群に向かって走り出した。