第九十九話 膠着
黄巾の乱で沸く中原だが、予州の潁川郡、汝南郡、陳郡の三郡を平定した功績により、皇甫嵩は都郷侯という爵位に封じられ食邑(所領)を得た。さらに将軍号として大将軍に次ぐくらいの車騎将軍となった。
朱儁は西郷侯に封せられ鎮賊中郎将の位を与えられた。
彼らは、予州平定という大勝利の余韻に浸る間もなく、京師より皇帝直々の詔が発せられ、皇甫嵩と朱儁はそれぞれ、予州と隣接する二つの州へ討伐に向かうように命令が下る。
皇甫嵩は兗州の東郡へ、朱儁は荊州の南陽郡へ、二手に分かれる二方面作戦を遂行する。二万の軍を二つに分けてそれぞれ一万の軍で出征した。
兗州東郡には卜己が率いる黄巾賊の本隊一万人ほどが倉亭県を占拠しており、荊州南陽郡の宛県では戦死した張曼成に代わって趙広が十万近くもの賊軍を擁していた。
兗州東郡に向かった皇甫嵩は護軍司馬(副将)の傅燮と共に、荊州南陽郡には朱儁とその佐軍司馬である孫堅と共に。
皇甫嵩が向った兗州東郡倉亭県は汝南郡から約五百里ほど北方にある。一ヶ月かけて北上し、八月には倉亭県の黄巾賊渠帥、卜己を生け捕る事に成功し、七千もの首級を挙げた。
勝機が見えるまでは堅実だが、ここぞという時には怒涛の勢いで攻め立てる。その一翼を担っていたのが傅燮の采配である。彼は皇甫嵩の期待を遥かに超えた戦果を残した。
一方、汝南郡の隣の荊州南陽郡の宛城に向かった朱儁と孫堅は、六月中に荊州刺史の徐璆と 南陽太守秦頡の軍と合流して軍勢一万八千人になり、宛県城に立て籠もる趙弘が率いる黄巾賊を包囲した。
しかし、宛県城に立て籠もる黄巾賊は十万人以上にも達し、朱儁たちは県城を陥落させられぬまま二ヶ月あまりが過ぎ去り、はやくも八月となってしまっていた。
ここでも張譲は朱儁、皇甫嵩の足を引っ張ろうと躍起になって策を練った。京師において二ヶ月も膠着状態にある朱儁を更迭して、別の者を送るべきだという上奏を、張譲はまたしても左豊を使って捲し立てたのだ。
張譲の陰謀を知ってか知らずか、司空の張温の執り成しが功を奏した。
「かつて名将と呼ばれた秦の白起や燕の楽毅らも、時間を懸けてじっくり攻略する事もありました。朱儁は交州にて反乱を起こした賊を鎮圧したり、皇甫嵩と共に多勢の予州黄巾賊を平定したという輝かしい功績があります。それに宛県城を攻略する手筈はほぼ定まっており、あと一歩で県城を陥落できるという所まで来ていると聞きます。ここで将軍を更迭するのは兵法に反した決断でございます。ここは一つ、攻略期間をもう少し延ばしてやって成功を促しましょう」
この張温の上書で朱儁の更迭は見送られたが、結果的に朱儁の双肩に重圧をかける結果となった。
宛城にいる黄巾賊の補給線を断絶して包囲し、兵糧攻めで城を落とす作戦だったのだが、この件で発奮した朱儁は夜分に急襲をかけ、ようやく宛県城を抜いて趙広を討ち取った。
だが、趙広の副将である韓忠が再び城内の賊をまとめあげて、朱儁が率いる官軍を城外に押し返してしまうという不意の反撃を喰らった。
すぐに朱儁たちは県城への再急襲を敢行、塁を結び土山を起こし、県城の西南にある門を集中して攻撃を加えた。
朱儁たちが一箇所を集中的に攻撃している間に、孫堅が五千の兵を率いて東北の城壁を登り、孫堅自身が城内に一番乗りで突撃するという快挙で血路を開き、これがきっかけとなって朱儁の軍が再び城内に突撃、ようやく宛県城の黄巾賊を制圧した。
西華の戦いで一度は瀕死の重傷を負った孫堅だが、単騎で突入して功を上げるという悪い癖は、まだ治っておらぬようである。
孫堅の活躍で県城を抜いたが、韓忠がさらに付近の小城に逃げ込み、命だけは助けてくれと降伏を願い出た。
諸将は韓忠の降伏を受け入れるべきだと主張したが、朱儁と孫堅は韓忠の降伏を頑として撥ね付け、小城に立て篭もる韓忠を一気に制圧して斬り殺した。
すると今度は孫夏という者が韓忠に成り代わって黄巾の渠帥となり、宛の地でしぶとく反乱を続けるなど、最終的に荊州南陽郡の黄巾賊を平定するのに十一月までかかった。
一方の董卓は、全くと言って良いくらいに戦果を上げてなかったので、満場一致での更迭が決定となり、後任に予州と兗州の黄巾賊を鎮圧した 車騎将軍の皇甫嵩が選ばれた。
皇甫嵩は東郡の卜己を平らげた直後であり距離的にも冀州に近く、董卓の後任として冀州の黄巾賊本拠地の鎮圧できるのは彼しかいなかったからだ。
誰の目にも董卓の更迭と皇甫嵩の後任決定は明らかであり、張譲がどんな策を練ろうと避けられる筈もない。
左豊の讒言により更迭された盧植は、敵を前に酒宴ばかりして攻める気がない、という虚報であったが、皮肉にも董卓はそれを地で行く結果を残していた。
何度か野外で戦闘はあったが、董卓も黄巾賊も本気で戦おうとしていない。押せば引き、引かば押す、という具合にまるで示し合わせていたかのような戦闘である。
唯一、鉅鹿太守の郭典の奮戦があり、そのおかげで董卓は戦線を保てたとさえ言われたが、実際の戦況にさして変わりはなかった。
もちろん、実情は皇帝の耳に入ることはなく、董卓は何のお咎めもないままに、自軍を温存したまま故郷の涼州に帰還する事になった。




