第八十五話 援軍
火計で黄巾賊に一泡吹かせた長社城の皇甫嵩たちは、勢いに乗って城外の賊軍を攻め立てた。
賊軍の兵は経験不足とはいえ、十数万人を擁する大軍だ。火計によって長社城付近の賊軍は散開したが、まだかなりの勢力が背後に待機している。
業火に焼かれる草原から逃げ遂せた波才は、散り散りになった部隊をまとめて反撃すべく態勢を整えた。
「皆の者っ、よく聞け! 我等には中黄太乙のご加護があるっ。これしきの炎で黄天の地を焼き払える筈があろうかっ。それに近日中に我が太平道の援軍が参る算段がついておる。ここで再び漢軍の奴らに目に物見せてやろうぞ!」
白馬に乗った波才は九節杖を右手に頭上高く掲げて、太平の信徒に呼びかけた。それまで動揺していた者たちも、平静を取り戻し戦う姿勢を見せた。
左手に持った矛を携さえた波才は、出で立ちは大方らしい道師の姿だが、上半身の服を脱ぎ捨て、若々しく厚い胸板を晒した。自ら先頭に立って戦うつもりだ。
張譲が使嗾した官軍が、ソックリそのまま寝返って太平道(黄巾賊)の部隊となる手筈だ。それまでは例え焼け野原になろうと長社城を落とさねばならない。
燃え盛る草原から少し離れた場所で、四散していた黄色い賊が続々と集っているのを見て、朱儁は大きく舌打ちした。
「あいつら反撃するつもりでっせ。ホンマにしぶとい奴らや。兵法で言うたら……火攻めに失敗した時は、一旦退かなアカン」
「まだ失敗した訳ではありません。ここが正念場です。我等もここで部隊を集結させて真正面から戦いましょう。戦場の機運はこちらに流れています。この勢いを駆って賊を打ち破るのです!」
「そう仰るやろって思うてました。せやったら、とことんヤッたろやないですか!」
皇甫嵩の不退転の決意に改めて敬服し、朱儁もぐっと腹を括った。黄巾賊の兵舎はほとんど焼失し、およそ半数の人員を失ったが、生き残った賊たちの数はまだ官軍よりも多い。
集結した官軍は騎兵を前一列に並べて横隊とし、陣形を整えて号令を発し、一斉に掛鬨の声を挙げながら黄巾賊に向かって突撃を敢行した。
「突撃ぃい!」
すると左翼方面からもう一つの軍勢が掛鬨の声をあげながら黄巾賊に向かって突撃してくるのが見えた。
いや、それだけではない。右翼方面からの軍勢も見える。こちらも黄巾賊方面に向かって突撃してく。
「おお、あれが雒陽から派遣されてきた援軍に違いない。張中常の計画通りだ。あの軍が寝返って我が軍を助けてくれるぞ!」
波才は迫り来る援軍を見ながら高笑いしている。これで反撃ができる、そう思っていた。しかし、それは大きな間違いだったとすぐに思い知らされる。
迫りくる援軍を見て歓喜したのは波才だけではない。朱儁も声を上げて感情を高ぶらせた。
「おお!! 右翼から進軍して来るんは、孫文台やっ! あの馬は文台に間違いないですわ!」
驄馬(灰色の芦毛の馬)を駆る赤い頭巾を被った若武者は、孫堅に間違いないと朱儁は確信した。
「せやけど、左翼から来てはる軍は、一体……どこの軍やろ?」
朱儁は両方面から迫ってくる援軍に期待しながらも、正体のわからない左翼の援軍に少し戸惑った。
「左翼方面のは、京師から来た援軍で間違いないでしょう」
傅燮も朱儁に続いて声を大きくあげた。やはり喜びを隠せない様子だ。
「皆さん、待ちに待った援軍が到着しました。これで勝利は完全に我等のものになります。全力を出して戦いましょう!」
普段から冷静な皇甫嵩も興奮気味で全軍に号令をかけた。兵士たちの士気が見る見る上がっていくのがわかる。
左翼を担う形になった曹操の軍は、黄巾賊の横腹に猛烈に攻撃を仕掛けた。夏侯惇や淵、曹洪も先頭に立って賊たちを薙ぎ倒して行く。
「羽林としての誇りをここで見せ付けるのだ!」
曹操は自軍の兵にそう叫ぶと、自らも刀を振るって戦陣を駆け巡った。
「何故、我軍に向かって攻撃してくるのだ? 張譲の奴め、曹操が寝返る手筈だったのではないのか!」
頼みの援軍だと思っていた部隊に、凄まじい勢いで攻撃されて、波才も部下たちも多いに士気を挫かれてしまった。
右翼側から現れた援軍も凄まじい奮戦ぶりだ。その援軍の先頭で奮闘する荒武者を見た曹操は、思わず釘付けになった。
もしや、江東の孫堅……間違いない。曹操はかつて雒陽で孫堅と相見えた時の記憶が鮮明に蘇った。
凄まじい戦いぶりが孫堅である事を物語る。負けてはいられないと、曹操が奮い立つ。率いる羽林軍も苛烈に賊を攻め立てる。
中軍である皇甫嵩も籠城の鬱憤を晴らすべく、怒涛の勢いを持って攻め立てた。
曹操と孫堅の援軍を併せてもまだ、黄巾賊の数の優勢は変わらないが、勝利への時勢は明らかに官軍の方に向いている。
ついに黄巾賊は官軍の気勢に押されて後退し始めた。波才は必死に食い下がったが、巻き返すには及ばず、遂に撤退を余儀なくされた。
もはや撤退と呼べるほど行儀の良い引き際ではない。這々の体で四方八方に逃げ去っていく。
「やった! 賊が逃げていくぞ!」
「一人も逃さず打ち取るのだっ」
戦場では銅鑼の音や怒号が鳴り響き、草原を焼きつくす炎と相まって、ある種の祭の様相を呈していた。
「早く賊軍を追撃しましょう、左中郎将殿。まだ波才の首は届いておりませぬ。ここで討ち取っておかねば!」
傅燮は焦りぎみに皇甫嵩へ意見した。
「追撃したいのは山々ですが、兵たちは食事すら摂れていません。今しがた到着した援軍も昼夜問わずの行軍で、かなり疲弊しています。追跡は斥候に任せて、まずは兵を休め慰撫するべきです。明日の朝すぐ全軍で追撃しましょう」
皇甫嵩の発言は説得力がある。傅燮は深く頷いて兵たちへの元へ向かった。焦っていた自分を戒めて、勇敢に戦った兵士たちを見舞った。
黄巾賊の幕舎は火の海に沈み、逃げ遅れた賊は一人残らず討ち取るなど、官軍にとって会心の勝利となった。
肝心の長社城に籠もった官軍たちの食料問題だが、運良く兵糧庫の一部が焼け残り、援軍が運んできた増援用の兵糧などで、当面の食料は調達できた。
焼け野原に残った火が夜の雲に赤く反射しているのを酒の肴にして、長社城内で大々的に勝利の宴を開き、久々のご馳走をありったけ喰らう兵士の姿があった。
「朱将軍、お久しぶりでんなぁ。遅ぉなってしもてホンマ堪忍ですわ」
陽気な明るい声が響く。朱儁に江東の訛りで話しかけているのは、若くして海賊退治で名を上げ、実績でのし上がってきた叩き上げの軍人、二十八歳になったばかりの孫堅であった。
「文台君、遠い所から、よう来てくれはったな。赤い幘(頭巾)がよう目立っとったで。これからもよろしゅう頼むわ」
朱儁も貧しい出自で叩き上げの軍人である故、孫堅に対して一目置いており、朝廷に上奏して孫堅を別部司馬に任じるつもりだ。
その頃、曹操は酒宴の場から離れて夏侯惇、淵と共に人目の付かない場所で密談をしていた。
「皆、後の手筈はわかっているな。張譲の目を欺く為に、俺はこの戦いで命を落としたという事にし、暫くの間はこの身を隠す。お前たちには迷惑をかけるが、宜しく頼むぞ」
義弟たちに向かって深々と頭を垂れた。曹操はすでに司令官ではなく、一般の兵士と同じ服装に着替えている。
「やめてくれよ、兄貴。俺たちも兄貴の役に立てれて光栄だぜ」
そう言うと、夏侯淵が跪いて曹操の手を取った。夏侯惇も一緒に跪く。
「有り難う。それでは頼んだぞ、妙才。また再び生きて会おう」
曹操はもう一度だけ皆の前で頭を垂れた。その後に曹洪と夏侯惇を連れてその場を去っていった。
立ち上がった夏侯淵は去っていく曹操たちを見送った後、勝利の宴で湧き上がる陣営内に戻った。
陣営に戻った夏侯淵は、皇甫嵩ら討伐軍首脳らが細やかな勝利の宴を催している長社の宮城に出向いていった。
席に入ると皇甫嵩が座る席の前に通され、そこで膝を付き丁寧に拱手行礼して挨拶をすると、皇甫嵩も同じように礼儀正しく挨拶を返す。
「確か、かつて雒陽の北部尉をされていた曹孟徳殿ですね。義郎から騎都尉に昇格されるとは、さすがに出世がお早いですね」
皇甫嵩はおべっかを使うような男ではない。ましてや、嫌味で言っているのではない。以前より曹操という人物に興味があったのだろう。
だが、皇甫嵩が話しかけている男は、曹操ではなく夏侯淵だった。




