第八十三話 死中の活
潁川方面の援軍で派遣された騎都尉の曹操は、皇甫嵩と朱儁がいる長社城へと向かっていた。雨はしとしとと降り続いている。
「兄貴に呼んでもらえるなんて嬉しいよ。俺たちは兄貴の為ならどこへでも駆けつけるぜ」
曹操は初の戦場を迎えるに辺り、腕の立つ自分の従兄弟たちを従軍させていた。夏侯惇、夏侯淵、曹洪の三人である。ただし、曹操の側にいて仕える侍衛としてである。そして曹操と張譲の関係事情を話した。
「どんな事情があろうと兄貴は兄貴だ。俺にできることがあれば何でも言ってくれ」
夏侯惇の言葉によって曹操は救われた気がした。やはり、夏侯惇は信頼できる一番の弟分……いや、むしろ無二の親友と言うべき男だ。
「兄貴が騎都尉だなんて鼻が高いぜ。一緒に戦えて光栄だよ」
曹洪は物欲や名誉欲が強い男だが、勇敢で機転も効く。何より曹操に対する忠誠心が厚い。
「一番乗りは俺に任せてくれ。必ず戦功を打ち立てて兄貴の役に立って見せる」
人一倍勇猛なのが夏侯淵だ。馬を駆るのが得意で弓の扱いが上手い。夏侯惇とは顔も背格好もよく似ているが、気性の荒さが顔に出ている。
突然の大抜擢で羽林騎(近衛兵)を任された曹操だが、三人の弟たちがいてくれるだけで心強い。
曹操が羽林騎の司令官であるが、実際には羽林左監の苑銛という男が取り仕切っている。軍歴ある男だが、曹操はこの男の存在をきな臭いと感じていた。
羽林騎を左右二つの軍に分けおり、羽林左騎の軍を統括する役目が、羽林左監である。
もちろん、羽林右騎を統括する羽林右監の李准もいるが、この男も同じくきな臭い。
従兄弟たちが一緒なのは有り難いが、その事で曹操の不安が解消された訳ではない。
十万の賊軍に囲まれて不利な形勢で長社に籠もる官軍二万人を救出するのが役目だ。兵法についてはあらゆる書物を読み漁った曹操だが、やはり実戦となると震える思いがする。
武者震いなのだと自分に言い聞かせて奮い立たせるが、事態は漢室の存亡に関わるという風雲急の中で戦場に向かっているのである。
張譲の策に乗って十万を超える賊軍と手を組み、長社城を攻め落とす方が遥かに楽で確実に勝利を収める事ができる。今は賊軍の太平道も、漢室を倒せば官軍となり、新しい王朝となる。
儒教では易姓革命という理念がある。いわゆる、王朝交代を指す。張譲からの御目溢しの為に漢室に背くという汚名だけは、曹操の自尊心が許さなかった。
まだ不安の種はあった。曹操が張譲を裏切ると、張譲はあらゆる手で政界から曹操を追い落とし、一族は根絶やしにされるだろう。
しかし、曹操には切り札がある。張譲を土壇場で失脚させるには持ってこいのある物証を掴んである。留意せねばならぬのが、時節を見極めて物証を扱わねば水泡に帰すという事だ。
とにかく、やるしかない。皇甫嵩と朱儁は歴戦の勇者だ。曹操の援軍が到着すればこの状況を打開できる筈。
その前に一つ片付けておくべき事がある。
「目障りな男が二人いるのだが、元譲はどう思う?」
騎都尉である曹操の羽林左監として従軍している苑銛と、羽林右監の李准の事だ。
「どう思う、ですか。まるで頓智ですな」
獲物を追う狼の様な目で曹操に聞かれたが、すぐに夏侯惇は理解した。
「はっはっは。俺があの二人を殺ってやろうか。俺の矢を心臓にブチ込んでやるぜ」
いつも鼻息の荒い夏侯淵が笑いながら話に割り込んでくる。
「そうだな。元譲(夏侯惇)と妙才(夏侯淵)にやってもらおうか。俺の頭ん中に筋書きがある。今から俺の策を教える」
曹操は義弟たちに自分の真意を伝えた。羽林左監と羽林右監である苑銛と李准は、張譲の息がかかった間者に違いないと、曹操は薄々ながら感付いている。
曹操率いる援軍が長社に近づくにつれ、雨期にしては珍しく晴天となり、太陽がの陽光が燦々と降り注いだ。
長社城の周りは見渡す限りの草原だと聞く。雨期でさえなければ例え十万の軍勢に囲まれていようと火攻めで撃退できるだろう。
晴天となった今、簡単に火攻めができるかと言えば、やはり難しい。壮大な大地で火攻めをするなら追い風は必須条件だ。
「久しぶりに陽の光を見ること出来ましたね」
長社城の中で少々窶れた顔の皇甫嵩が天を見上げて言った。久々に諸将たちは外に出て太陽の下で息を大きく吸っている。
「頼りなんは水だけやったのに。雨、止んでしもうたな」
少しやつれた朱儁は、力なくそう言った。
籠城してから一週間あまりが経ち食糧不足が続いている。雨期だったので水だけはたらふく飲めた。兵たちは残り少ない雑穀を大量のお湯で煮て重湯のような流動食で空腹を凌いでいた。
「いや、今こそが絶好の機会かもしれませぬぞ。この晴天こそが城を打って出る好機ではないでしょうか。昼間の内に火計の準備を整えて、今夜にでも早速実行いたしましょう」
皇甫嵩は窶れていながらも力強い口調で、城外戦を主張した。朱儁はそれについて反論した。
「外じゃ十万の賊が、ワイら出てくるんを待っとるんでっせ。大人しく援軍待っとる方がエエんとちゃいますか。京師からも故郷の江東からも援軍が来る手筈やし……」
朱儁は投げやりな物言いで皇甫嵩に言った。それでも皇甫嵩は続けて主張する。
「兵たちは疲労と空腹に喘いでおります。これ以上長引くと戦うどころではない。戦は臨機応変、兵の多寡で勝敗を決すのではありません。敵は草原に陣取っており、雨期から解放され遂に晴天となりました。賊は草むらの上に陣を敷いているのです。夜中に打って出て草原に火を放ち、一気に賊を殲滅するのです。斉の田単がやったという火牛の刑を我等で成し遂げましょう!」
「火計はワイも思うてたけど、晴れたいうたかてまだ草も湿ってるやろうし、そもそも風が上手いことエエ方向に吹いてくれんとあきません。夜の風はすぐに止んでまうし、夜の火攻めはアカンって、孫子もいうてまっせ」
朱儁だけが弱気になっているのではない。皇甫嵩の副官である傅燮も辛気臭くなっていっる。
「左中郎将殿、私も朱中郎殿の言う通りだと思います。火計に適した条件が整っていません。援軍を待つべきです」
普段なら剛気で鳴らす朱儁と傅燮もこうなのだから、他の諸将たちの心身も限界にある。
埒が明かないと危惧した皇甫嵩は、珍しく朱儁をはじめとする諸将たちを睨みつけ覇気を見せた。
「それではこのまま、いつ来るかわからない援軍を、ただ指をくわえて待っていろと言うのですかっ!」
朱儁と傅燮は皇甫嵩の怒声にハッとした。そして弱気になっていた自分たちの心根を恥じた。特に朱儁は波才に大敗を喫してからというもの、なにかと消極的になっていた。
戦いに冷静な状況判断も必要だが、敗北が決するのは心が折れた時だ。他の諸将たちも弱気になっていた心根を恥じた。
朱儁は気を取り直して皇甫嵩の目の前で膝をついて一礼し、今までの消極的な態度を改め謝罪した。
「ほんまに堪忍です。皇甫中郎将、援軍をあてにするやかて、ワイの考えが甘かったですわ。考えて見れば絶体絶命の時にこそ好機が待っているんかもしれまへんな。やりましょう、今夜すぐに!」
皇甫嵩も朱儁に一礼して手を取り、立ち上がらせてから肩を叩いて言った。
「朱中郎殿、有難うございます。思い立ったが吉日です。諸将の皆さん、死中に活を求める時が来ました。今夜、城から打って出て火を放ち、賊軍を殲滅しましょう!」
「よしっ、やるぞ!」
「賊ども打ち払ってやるっ」
「奴らを倒して飯を腹いっぱい食うぞっ」
諸将たちは皇甫嵩の言葉で一丸となった。決起は兵の一人一人に隅々まで響き渡っていった。




