第八十〇話 一撃
薊城といえば、現在は中国の首都である北京市に位置する、この薊県の中心にある城だ。戦国時代には燕の首都として栄えていた。
そこから二、三十里ほど離れた砦は、岩場に囲まれた天然の要塞になっている。そこに大きな門と頑丈な柵で囲いを作り、薊県に巣食う黄巾賊の防衛の拠点としていた。
清々しい夜明けと共に、三人の男たちが馬に跨って砦の門の前に表れた。たった三人で乗り込んできた無謀な男たち。
もちろん劉備を長兄とする関羽と張飛の、あの三兄弟である。張飛は真ん中に立つ劉備に向かってボソっと呟いている。
「玄徳あにきぃ。オラと雲長兄ぃでやっがら下がっててけれ。邪魔でしょうがねぇべや」
劉備は砦の門の方を向いたままで張飛に返事をした。
「うるせぇ。お前らの腕力には劣るかもしれんが、足手まといにだけはならねぇから安心しろい」
何時の時代でも侠の世界では親分や兄貴の言う事は絶対である。無下に劉備の頼みを断ることは出来ない。関羽は張飛と目配せして、劉備だけは何があっても守りきろうと無言のうちに決意した。
「で、なんつぅんだっけ? 賊の親分の名前」
「確か、程炎とか言ってたな」
唐突な張飛どうでもいい疑問に、関羽は答えてやった。
「うっし!」
張飛は馬を一步前に進ませて、大きく息を吸い込み始めた。
「うぉらぁあっ、程炎っ、黄巾賊どもぉ! でこいやぁあ!」
朝っぱらから、雷鳴でも轟くかのような大声が薊城に響き渡った。
大声に驚いた賊たちが城壁の上から顔を出した。その後ぞろぞろと城壁から黄色い頭を覗かす数が増えていった。
張飛は黒光りする蛇矛を手に、馬の手綱を引いて叫びながら進んでいく。
「我が名は張益徳! 中山靖王の流れを組む劉玄徳の末弟だ! 男なら潔く出てきて勝負しろ! 程炎、はやく出でごい!」
やがて、砦に潜む黄巾賊たちは城壁の上から弓を構えて威嚇した。
「よし、益徳。矢の当たらぬ所まで下がるんだ」
「でぇじょうぶだ、アニキィ。まだ撃ってきてもねぇのに後ろに退けるかっつうの」
「ばか、誘い出すのが俺らの役目だぞ」
すでに張飛は聞く耳持たず、である。
「おおい、腰抜けどもが! オラたち三人だけだぞっ。何ビビってんでぇい!」
城壁の上から「撃てっ」という声が聞こえると、一斉に張飛に向かって矢がザザッと飛び始めた。
同時に張飛は、馬に鞭打ち前方へ進みながら、蛇矛を両手に持って頭上に掲げた。
「ふんッ」
一丈八尺(約四メートル)もある長い蛇矛を、目にも留まらぬ速さで振り回し、我が身に降りかかる矢の雨をいとも簡単に振り払った。
しかも無造作に振り回しているのではなく、まるで矢の一本一本が止まって見えているのか、的確に素早く蛇矛で打ち払うのである。
「もっと撃ってこいやっ。準備運動にもならねっぞ!」
砦の柵の上で賊どものざわつく声がする。明らかに賊たちは動揺している。
馬上で槍や薙刀を振り回すという芸当はそれでけでも驚異的な技術を要する。
況してや、この時代にはまだ鐙は存在しない。鐙とは、足のつま先を載せるための馬具であり、後漢時代には未だ発明されていなかったのだ。
鐙で馬上で足の踏ん張りを利かし、武器や弓矢を撃つ。その鐙なくしては、太腿で馬の胴を挟み込む事でしか、身体の平衡を制御できない。
生まれついて馬を扱う事を宿命とされた騎馬民族でなければ、馬上で長槍を振り回すなど出来ぬ芸当だ。
馬上で武器を扱う事に関して張飛は、関羽より一日の長があったと言ってよい。
彼が生まれ育った幽州は中原から離れた北方の地であり馬の産地であった。張飛も遊牧民のように幼少の頃より馬に慣れ親しみながら育った。
張飛の荒技を目にした関羽もジッとしておれず、馬にムチ打ち青龍偃月刀を右手に掲げて走り寄ってきた。
「益徳よ、お前一人楽しもうってのか。久々に俺も血が湧いてきたぜ」
関羽と張飛が馬を並べた所で、賊たちは城壁の上から射撃していた弓をしまい、数人の者が運んできた銅鑼を仰々しく叩き始めた。
すると砦の門がゆっくりとほんの少しだけ開き、馬が一頭ぶん通れるだけの隙間から馬に乗った数人の賊が現れ始めた。五番目に馬上の賊が出てきた所で再び門は閉じられた。
「てめぇら、朝っぱらから元気な声だしやがって。仲間に入れてもらいたいならハッキリ言えよ。考えてやってもいいぜ。ここで馬を降りて土下座したならなぁ」
関羽や張飛に負けず劣らずの屈強な体付きの賊が、二人を威嚇する言葉を発した。
「退屈な野郎だぜ。ゴタク言ってねぇで、サッサとかかってこいや」
張飛はあくび混じりで言い捨てる。
その言葉にキレた賊が、額に血管を数本ほど浮き上がらせた。怒りの形相で馬にムチ打ち、矛を片手に構えて関羽と張飛に向かって突進していく。
「益徳、こいつは俺が殺っちまうが、いいか?」
関羽は張飛に横目で合図しながら言った。
「しぁねぇ、アニィがそう言うんなら」
張飛はニヤリとしながら頷く。
「でゃぁ、行けい!」
関羽の馬が嘶き前足を高く上げた。その勢いで前方に走りだす。
勝負は一瞬で決着がついた。張飛にとっては呆気無い時間だが、賊たちの方からすれば戦慄の瞬間であった。
関羽と勝負したハズの賊は、首のない躯になったまま馬に乗ってどこかへ走っていってしまった。賊の首は吹っ飛んで城壁にぶち当って落ちる。
「おお、遠くに飛ばしすぎだべ、あの首」
張飛は城壁を睨んで笑う。
張飛の馬上での技術には劣るが直線的な突撃なら、関羽の必殺の突きは張飛に優るとも劣らない。
他の四人の賊も負けじと矛を構えて襲いかかろうとする。
「もう一人の男に皆で一斉にかかるんだ」
張飛一人に的を絞って囲い込もうという考えだ。
「今度はオレの番だな」張飛は声高く吠え、自慢の蛇矛を軽く振り上げる。
「息を合わせて集中攻撃するぞ」
四人の賊は素早く張飛を取り囲み、呼吸を合わせて四方から張飛の胴体を目掛けて矛を投げ飛ばした。
「ぬぅん!」
張飛の胴体に向かって突き進む四本の矛は、張飛が振り回した蛇矛が四本同時に吹き飛ばした。
「そんな、バカな……」
賊たちは驚き怯んだが、腰に当ててある刀を鞘から抜いて、さらに立ち向かおうとする。
しかし、張飛の形相を見て身体が硬直した。まるでこの世の者とは思えぬ鬼の形相だ。しかも不敵に笑っている。賊たちにとってはそれが現世で見た最後の記憶となった。
張飛の風のような蛇矛で四人は残らず首を飛ばされたのだ。反撃などする間もない、まさに瞬殺である。




