第八話 少年・劉備
数週間後、八人の大方達は、数人の軍吏と数百人の道士を率いて赴任する州へ向かった。
張世平と名を変えた張倹は、程炎という大方を補佐する政務官として任地に随行する。
幽州。現在の河北省と遼寧省に当たる当時の中国では最北端。気候は厳しく土地も痩せ、北方異民族からの侵略と略奪が横行している地域だ。
後漢末期当時の地球の気候は寒冷期であったと言われ、冬は一層厳しい時代だった。
幽州へと旅立つ時期は、厳しい冬が終わりを告げる頃。冷たい雪が少し残る中、鮮緑に色付く暖かい春が訪れていた。
太平道の一行は幽州の州都である広陽郡の都、薊に向かっていた。薊の近隣に根拠地となる宮館を建設していたからだ。
その道中、涿郡涿県の酈亭という、桑の木が群生している里に通りかかった。
遠くからでも見えるほどの巨大な桑の木が、桑林の真ん中に一際そびえ立っている。
「美しい……。なんと美しい木であろうか……」
張世平にとってその木は、巨大で神々しい光を放っているかのように見え、道すがらの馬上からずっと眺めていた。
「あの木ですか? 桑……の木ですかね。五丈(十二メートル)はありそうですね 」
張世平と名乗り始めてから、付き人として彼に仕えている若者がいる。
その若者は姓名を蘇双、字を士然といった。
齢は十代半ば、お人好しだが利発で忍耐強い性格。風貌でどこにでもいる普通の男子だ。
「しかし、桑の木ってあんなに大きくなるんですね」
蘇双は張世平の馬の手綱を引いて歩きながらしゃべっている。
「大きさだけじゃない。あの桑の木は高貴な気品すら感じさせる」
世平は遠くに見える巨大な桑の木から一瞬足りとも目線を離す事なく進んでいく。
蘇双も木の美しさに惹かれはしたが、世平は何かに取り憑かれたような目付きをしていた。
「すまんが、すぐに戻る」
そう言うと張世平は馬の鼻先を逆にして、そびえ立つ巨木に向かって馬を走らせた。
「え……?」
突然の事で周りの者たちは呆気に取られた。そのせいで蘇双は大分遅れて世平のあとを追った。
「なんなんだ、あの人は!」
桑の木が立ち並ぶ林の中を、馬で駆け抜けて行く張世平。日差しが若緑に輝きながら揺れる木々の間を、子供の頃に戻った様な気持ちで馬を走らせていた。
大きな桑の木が近くに見える所で馬を停め、馬上から降りて木の枝に手綱を縛り付けた。世平は歩いて巨木に近づいていく。
太陽の光がその巨大な桑の木を、神々しく新緑が包み込んでいる。
両手で覆いきれぬほど太い幹に手をあて、そっと天を仰ぎ見る。何故だか、自然と涙が溢れ出した。
幹に背を付けてしゃがみ込み、少しのあいだ瞑想にふけった。これほど安らかな気持ちになった時があっただろうか。
しばらくすると、木々が風に揺られる音とともに、子供の騒ぎ声が遠くから聞こえ始めた。
ちょうど、この桑の太い幹の真裏からだ。その声は騒がしい声を響かせながら、徐々に近づいてくる。
数人の子供の声が聞こえてくる中で、ガキ大将らしき子供の声が甲高く鳴り響く。
「おう、おめぇらよぉ、このでっけぇ桑の木を見でみろぉ! オラんちの木だぜ。スゲェだろ?」
「わあ、いつ見でも、でっげぇよなぁ」
「だろぉ? なぁ、おい、この桑の木ってよぉ、羽飾りの付いた蓋車に見えねぇか?」
「何それ?」
「ったく、知らねぇのかよ。天子(皇帝)が乗るキンキラしたすげぇ馬車だよ」
「へぇ、見た事もねぇよ」
「けッ、そらぁそうだよな。おめぇら見でろよ。オラぁなぁ、いつかこんなキンキラの馬車に乗ってやるぜっ」
そこへ突然、大きな怒鳴り声が響き渡った。
「備っ、コラぁてめぇ、劉一門を破滅させる気がっぁ」
木の裏側で座りこんで瞑想していた張世平も、さすがに目を覚まし、すぐその巨木の影に身を埋めて潜んだ。
「さっきみでぇな事をもう一度言っでみろっ、このバカでけぇ耳い引き千切んど!」
「痛ででぇ。わぁったよ、叔父さんよぉ」
大耳の少年と、突如現れた少年の叔父を残して、子供らは蜘蛛の子を散らすようにその場から消えた。
「わがってねぇだろ、てめぇ。今ぁ言ったぁこたぁ役人にでも聞かれてみろ、即刻一族皆殺しにされんぞ」
「わぁってるよっ。こんな所に役人なんていねぇだろぅ、叔父さぁん」
「ぶぁかもんがぁ! 誰かが役人に告げ口したらどうなるべ。そんなつまらん事、二度と言んでねぇ」
少年の叔父は引っ張っていた大耳を離し、何かブツブツ言いながらその場を離れていった。
「ぢぐしょうっ。どっから出てきたんだよぉ」
少年はボソッと呟き、半ベソかきながらおおきな桑の木をしばらく見上げていた。
ふてくされて木の根に腰を下ろす少年。すると、幹の向こう側から鼻をすする音が聞こえてきた。
また誰かいるのかと思い、おそるおそる覗いて見ると、岩石の様なゴツゴツした顔と、間近で鉢合わせになった。
「うわっ」 「おおっ」
二人同時に大きな声を出して尻もちを付いた。そしてお互い顔を見合す二人。
「おっさん、ずっとここにいたのか?」
コクっとゆっくり首を下に傾けて頷く。
「ビックリさせんなよ、おっさん。あんた、凄げぇ顔してっなぁ」
「す、すまん。驚かすつもりはなかったんだが……」
「あぁ、イイって。で、おっさん、泣いてたのか? 目が真っ赤じゃねぇか。鼻ススってたし」
「 あぁ、まぁな。色々思い出していてな」
「ふぅん。まぁ、元気だせよ。そうだ、いいもん持ってきてやっがら。ここで待ってな、おっさん」
この桑の巨木のすぐ側に、その少年が住む一軒家があった。
古い質素な建物だが、綺麗に掃除が行き届き清潔感がある。
少年は家の中から、大きな籠を持ってきた。その中にはたくさんの赤黒い桑の実が入っていた。
「この時期に実るなんて珍しいべ。この木だけ何故だか早いんだわ」
「ありがとう、坊や。少し頂くよ。ふむ、少し酸味があるが甘くて美味しいなぁ」
「坊や、なんて呼ぶなよ。俺はもう一人前だ。 ががの仕事の手伝いもしでるし、オラァ自分で何だってできるんだ。子分だっていっぱいいんだぞ」
この少年、よく見ると少々怪異な風貌をしている。最初に目に付くのがその大きな耳。目で自分の耳が見えそうなほどだ。
もう一つ特徴的なのがその腕の長さである。膝に手が届く位置まで長いのだ。
「そうか、それは失礼したな。とにかく、ありがとう。この実、美味しかったよ」
「おっさん、どっかよそから来たんでねぇか?」
「ん、あぁ、さっきここに付いたばっかりでな。ここはなんて村だい?」
「ここは楼桑っていう里さ。桑の木がいっぱいあるだろ」
「ああ。特にこの桑の木は本当に凄い。貴族のように気品のある神木だな」
「この桑の木が一番でけぇんだ。ほら、おっさん、もっと食え」
赤黒く熟した桑の実が甘酸っぱく、一足先に春を満喫した気分になった。
「おいしいなぁ。本当にありがとう。こんなにいっぱいもらってもいいのかい?」
「早く食わねぇとダメになっちまうからな。すぐに熟しちまうし、虫にも食われちまう」
「桑の木がたくさんあるという事は、君の家でも養蚕の仕事をしてるのかね?」
桑の葉は蚕の食餌である。漢代は、幽州(現在の河北省)でも絹の産地として知られていた。
後の世に蜀の地が養蚕の一大産地となる。それはこの少年の未来を暗示するかのようでもある。
「いやぁ、オラんちはそんな金持ちでねぇ。ガガと草鞋や筵を編んで、それを売って暮らしてんだ」
父親はいないらしい。母子で慎ましく暮らしているのだろう。
「色々と有難う。さっき君が言っていたな。いつか豪華な蓋車に載るって」
「あれは、内緒にしといてけれ。でも、いつか必ず乗ってみせるぜぇ。なんせオラんちの一族は中山王だった靖王様の末裔の<劉>家なんだかんな。」
この備という名の少年は、母や叔父からそう言い聞かされて育ったのかもしれない。
中山靖王・劉勝は女色に走った前漢時代の皇族で、孫まで含めると百二十人以上設けたといわれている。
劉勝が中山王に封ぜられてから二百五十年以上が経ち、彼の子孫はすでに数万人になっていた。
もはや皇族の血筋かどうかなど知る由もない。張世平はそういう歴史的事実を知っていた。
劉姓の生まれが、劉備という少年の誇りである事に違いないのだ。
そんな無粋な事実など、この明朗な少年にいちいち伝える必要はない。
「そうか、皇族の血筋か。君なら蓋車に乗れるかもしれんな」
張世平の言葉は後半、弱弱しい喋り口調であったが、何故か説得力を持って少年の心に響いていた。
「そ、そうか? 俺もそう思ってんぜ!」
「ははは。面白いなキミは。名は備だといってたな。成人して字をつけるなら、『玄徳』にしたらどうかな」
「玄徳ぅ?」
「天は玄にして、地は黄なり。今の私の心境だよ。玄とは天地万象の根源だ。その色は赤黒く、ちょうどこの桑の実のようであると聞く。大地は黄色い砂を表すのだ」
「なんだべ、そりゃぁ?」
「ふふふ、ただの一人事さ」
そう言って劉備に背を向けた張世平は、自分の馬の方に戻っていった。少年は無言で彼の後姿を見送った。
馬の手綱を掛けていた木の所まで戻ると、そこに蘇双がやっとの事で、馬に乗って迎えにやってきた。
「世平様! 探しましたよ。一体どうなされたのですか、急に行ってしまうなんて」
「すまなかった……。あの巨大な桑が少し気になって。すぐに戻ろう……」
二人は急いで隊列に戻り、薊を目指して再び馬を歩かせ始めた。




