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三国志創生伝 ~砂塵の彼方に~  作者: 菊屋新之助
第七章  蒼天已死
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第七十四話  離郷

 少し時間が過ぎ、昼ごろになったのか……陽が薄い雲間から真上に登っているのが見えた。


 するとどこからともなく、わらわらと人が門の前に集まり始めた。集まっている人々は見るからに貧しい老若男女たちで、服装や髪の身だしなみが乱れている者ばかりだった。


 ただ、その者たちに悲壮感は感じられず、ある種の希望を見出しているかのようにさえ思えた。


 世平はそこに集まった者の一人に、どういう事情でここに集まっているのか尋ねてみた。


「何故、みんなは此処に集まっているのかね。何がはじまるというんだい?」


「アンタ、流れ者か? そりゃ幸運だったな。実は週に一度だけなんだが、今から張元節(ちょうげんせつ)様の施しが始まるぜ。アンタ、旅の者なら(わん)匕箸(ひちょ)(サジと箸)くらいは持ってるだろ。用意して列に並べばいい」


 世平が訪ねた男の口から漏れたのは意外な言葉であった。


「張元節だと?」


 元節……とは、(かつ)て捨てた(はず)の我が(あざな)。自分が住んでいた邸宅には今、()()()という人物がいるのだ。


「教えてくれ。張元節って人は、罪を着せられて一族と逃亡したと聞いたが」


「それが、今年になって罪が許されたんだとよ。散り散りだった一族も無事に戻ってきたとか。もう二ヶ月くらい前の話さ」


 世平は咄嗟に理解した。在野に身を隠した清流派たちを縛ってきた、()()()()が解かれたに違いない。黄巾の大乱で、それどころではなくなったのだ。朝廷が有能な士人たちを官界に戻そうとするのは当然だ。


 であるとすれば、今ここにいる張元節は――


「門が開かれたぞっ」


 列の前方から歓喜の声が上がった。


 門から十数人の者が現れて机を用意し、その上に大きな鍋を数個置いた。炊き出しが始まったのだ。皆、順番を守って整然と並び、和気藹々として食事を楽しんだ。


 粗末な食べ物しかなかったが、味は良好で不平不満を言う者は誰もいない。列に並んだ者の数は数百人ほどいたが、食事は皆に行き渡り、中には感激の涙を流す者もいた。


 世平も門に近づく為、列の最後尾に並んで順番を待った。順番が来る頃になると、とある人物が門から顔を出した。


「元節さま、元節さまっ、いつも施しを有難う御座います!」


 皆が一斉に門から出てきた人物を崇めはじめた。張元節本人が皆の目に姿を現したのだ。世平は近づいて()()()()()()をじっと見つめた。


「皆、聞いてくれ。今は戦乱の時代だ。田畑も荒れ人々の心も荒んでいる。私の財が続く限りは、こうして皆に食事を分けてやれるが、そう長くは続かない。だから、出来るだけ自分達の力でこの状況を切り開くんだ。その為の援助は惜しまない。頑張って一緒に今を生き抜こう」


 その場にいた者は「元節さま!」と叫んで涙を流した。皆、強く生きる事を決意した。困難に立ち向かう事を誓った。


 ただ一人、別の意味で涙を流している男がいる。それが世平だ。


 世平は見た――元節の姿を。ハッキリとその目に焼き付けた。元節として皆を励ましたのは、自分と姿形のよく似た……弟の仲節だった。


「元節様は党錮の禁が解かれると、大将軍や三公に招かれたそうじゃ。だが、朝廷で要職に就くのを断り、我らを助ける為に故郷に留まって下さったのじゃ」


 そんな声が背後にいた老人の声から聞き取れた。


「ありがとう……仲節……」


 背を丸めた世平は小声で呟くと咽び泣いた。他の者たちと同じように。


 弟の仲節が自分に代わって、家を守り、家族を守り、地域を守り、そして皆を愛した。それで十分だった。


 世平は静かに邸宅の前で深々と礼をすると、人々の間を潜って邸宅を離れて行こうとするが、ちょうど人混みを抜けた辺りで、机や鍋を片付けようとしている一人の青年を見かけた。


 ――間違いない。


 息子の()だ。生き別れた頃に少年だった廉は、その頃の面影を残したままで、立派な体格をした凛々しい青年となっていた。


 思わず世平は声が出そうになった。だが(れん)の姿を見つめる事しか出来なかった。


 見つめているうちに、息子の廉がこちらに気づいて目が合ってしまった。


(しまった――いや待て、焦る事はない。今の私の顔を見ても自分の父だと分かる訳がない)


 だが廉は世平の顔を見ても父だとは気付かない様子で、にっこりと満面の笑顔を返しただけだった。


 怪我によって変形した世平の顔に気づかなかった息子は、父とは知らずに笑顔を向けたのだろう。


(もう思い残す事は何もない――)


 自分の息子の笑顔を正視できず、別の方向へ振り向こうとした時だった。


「父上、まさか父上では?」


 ――何故だ。変わり果てた顔を見て、なぜ父だと言えるのだ――


 その瞬間、世平はかつて張霊真に言われた事を思い出した。


(――君の息子なら自分の父だとわかるさ――)


 我慢していた涙が堰を切ったように止め処なく溢れ出した。必死で堪らえようとすると身体が震えてしまう。


 息子の廉は世平の目の前に駆け寄って、もう一度変わり果てた顔を覗き込んだ。


「やはり父上なのですね。会いに来てくれて嬉しいです」


 立派な青年になった自分の息子を抱きしめたかった。そして自分の不甲斐なさを素直に謝りたかった。


「人……違いだ。君の父は……あそこにいる元節様じゃないか。私はただの、行きずりの……」


 嗚咽を漏らしつつ喋るので聞き取りづらいが、息子の廉には世平の言わんとする事が伝わった。


 遂に息子も目に涙を溜めて父の両手を取ってこう言った。


「私も、()()も、貴方に感謝しております。あの時の貴方の英断がなければ我が一族は滅んでいたでしょう。貴方の天にも届くほどの名声があったからこそ我々はこうして生き延び、そして困窮した人々に施しをする事が出来るのです」


「感謝しているのは私の方です。人々へ慈愛を施している、そんな君の父上は本当に立派なお方だ……。そして、君の父上は、うっ、君の事を……誇りに思っている事でしょう。私は、ただの旅の通りすがりですが、君の張家の一族の繁栄を……未来永劫、祈っております……」


 世平も自分の真の息子と同様に泣き、嗚咽を漏らしながら言葉にならぬ感謝の気持ちを示した。廉もまた気持ちを受け取って返した。


「あ、ありがとうございます……。それでは、旅の方。もし、私の本当の父に出会えたなら、伝えてください。貴方の息子に生まれた事を誇りに……思っていると。ううう、どうか、お達者で……」


 遂に息子は地面に膝を付けて頭を垂れて、その場に泣き崩れた。世平も膝を付けて自分よりも大きくなった息子の肩を抱き寄せ「ありがとう」呟いた。


 そして静かに立ち上がり、背を向けて歩き出した。


 一日の猶予を貰った世平だったが、彼の故郷で思い残すことは何一つないと思った。


 故郷への決別を済ませた世平は、高平の県城を離れるとすぐに石真の部曲が待つ砦へと戻って行った。

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