第七十三話 故郷
「張方さん。先程は故郷に帰ると言ったが、アンタはどこの生まれなんだい?」
蘇双は馬を駆りながら、相変わらず不躾な態度で石真に訪ねた。
「俺を方と呼ぶ必要はない。字の石真と呼んでくれていい。行き先は海辺だ。俺の故郷の海岸に戻る」
具体的な場所をはぐらかされたので、蘇双は試しに石真へ聞いてみた。
「卜己大方がいる隣の倉亭県に合流しなくても良いのか?」
「野暮な事を聞くな、士然とやら。俺は我が道を行く。今日の出来事が俺を変えた」
石真の言葉に嘘偽りは無いと、蘇双も確信したようで、世平と目を合わせて頷いた。そして、世平はもう一度問い直した。
「そうか。それで、キミの故郷は、どこなんだね?」
「故郷は、青州東莱郡の黄県。そこが俺の故郷だ」
「え……」
世平はそう一言を吐くなり動きを止めてしまった。
「世平様、どうかしたんですか?」
「いや、なんでもない……」
世平は老齢に似合わぬ力強い動きで、サッと馬の背に乗り込んだ。
青州東莱郡の黄県といえば、世平が張倹であった頃、最初に匿ってもらった場所であった。あの日、張倹を庇って死んでいった李篤が眠る地である。
運命とは皮肉なものだ……と小さく呟き、そしてすぐに「征かねばなるまい」と言った。
東莱郡に向かう途中、世平にはもう一つ避けて通れない場所があった。今いる東郡の東隣りの郡である山陽郡である。
ここにいる連中は誰も知らないが、山陽郡の高平県は世平の生まれ故郷であった。偶然にも、生まれ故郷が旅の道すがらにあるのだ。
ついに自分の過去と向き合わねばならない時が来た。高平県の付近にまで辿り着くと世平は覚悟を決めた。
「実は、少しだけ寄りたい所があるんだ。君たちは先に黄県へ向かっててくれないか」
「高平に用事でもあるのか。それなら我々も高平に立ち寄ろうか」
と石真がいうと、世平は大きく首を振って「一人で行きたいんだ、頼む」と願い出た。
「逃げるんじゃないだろうな」と石真は言うと、その言葉に蘇双が食い下がった。
「世平さんは自分からアンタに付いて行く言ったんじゃないかっ。ここまで来て逃げるワケがないだろう?」
「わかるものか。心変わりする事は誰にでもある」
世平が二人の間に割って入るように言った。
「すまないが、どうしても一人で行きたいのだ。一日でいい。一日だけあればすぐに戻る。頼む」
「一日か……、仕方ない。ここらへんで少し骨休めでもしてるか」
石真は渋々ながらも世平の単独行動を許し、高平県城の郊外で自分たちの部曲を休ませる事にした。
十年ぶりだろうか。高平の県城をに入るのは。
高平県は多くの皇族や名士を輩出する土地柄である。
張世平……いや張倹は、前漢で趙王として名を馳せた張耳の末裔で、親友だった劉表も前漢の皇室の家系である。
自分と劉表の二人が筆頭となり、山陽郡での「八及」を代表する人物として中原に名を響かせた。
党錮の禁が起こる数年前、三万人近くいた太学生(国立大学生)が番付を作り、清流派の名士として評されていた。
それが、「三君」「八俊」「八顧」「八及」「八廚」である。数字は人数を表している。
「君」とは、一世一代で人々の宗師となる人物を指し、
「俊」とは、英雄の気質を持つ俊傑である人物を指し、
「顧」とは、徳行の手本となり人々を導く人物を指し、
「及」とは、能く人々を導いて宗師に倣う人物を指し、
「廚」とは、財産を投げうって人々を救う人物を指す。
三君とされ筆頭であった竇武と陳蕃、劉淑らの清流派士人たちは、宦官たちに機先を制されて獄死、自殺または逐電するなどして、政界から完全に消された。
張倹は、宦官の筆頭だった侯覧に狙われて陥れられた。侯覧は不正と重税で人民を苦しめたが、張倹はその不正を暴こうとしたのだった。
奇しくも同郷の朱並という男が、侯覧に嘘の密告をして張倹を無実の罪に陥れた。
「張倹は同郷の二十四人を率いて反逆を企てている」と朱並が上書したのだ。
朱並は日頃から張倹に相手にされていないことを逆恨みしており、侯覧に取り入って張倹を亡き者にしようとした。
そこから張倹の長きに渡る逃亡生活が始まった。顔はまるで別人となり、名前も変えて当に別人となった。
故郷の高平県に自分の一族は、もう一人も残っていないだろう、世平はそう思っていた。
代々受け継いできた財産と邸宅を投げ打って、一族ともども逃亡の身となったからだ。
張倹はこんな理不尽な事で一族を根絶やしにされるなど、そんな運命を受け入れられなかった。
いつか時がくれば宦官の罪は暴かれ、自分の冤罪は晴らされ、再び一族は故郷で会えるだろう、と無謀ながらにもそれを信じた。
侯覧が死んだ事は風の噂で聞いたが、そんな事など既にどうでも良くなっていた。どの道、自分はもう張倹には戻れない。
張倹……と名乗っていた過去を捨てた世平は、望郷の念にかられながら高平の県城に入っていった。
自分が生まれ育った張家の邸宅をもう一度見たかった。恐らくは無残な姿に変わり果てた邸宅を見て、ここに来た事を後悔するやもしれぬ。
それでもその場に立てば、懐かしい日々を思い出す事ができるだろう。それが今の彼の望みだった。
しかし、自分の生まれた邸宅の付近まで来ると、自分の予想とは少し違った風景があった。
昔のままなのである。何一つ昔の記憶と変わらない、生活感がありありと感じられる、もっと言えば……幼少時代から青年時代までの思い出が走馬灯のように甦る、そんな佇まいが存在していた。
(誰か住んでいるのか――?)
世平は門を潜って中を確かめたいのだが、そんな事は出来るはずもなく、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。




