第六十一話 程立
「元節。いや、世平。ついに始まったぞ。少し予定がはやまったようだな……」
「霊真様ですか。何が始まったのですか。ここは一体……」
以前、世平が見た夢での世界だった。星々は輝き夜空はどこまでも延々と広がっている。
「張角が始めたようだ。黄天の世が来ると信じてな……」
「やはり、戦乱は免れないのですね……」
「悖理と瞞着が横行する世の中だ……仕方のない事かもしれぬ……。しかし、この黄老の教えは幾百年、数千年、語り継がれてゆかねばならぬ。世平、そなたに私の意志を継いで欲しい……」
「貴方にはご子息がおられたのでは。私が貴方の意志を継ぐなど滅相もございませぬ」
「我が息子はまだ幼い。それにここからは遥か遠くの蜀の地におる。今ここで太平の道を外れた者たちを救えるのは其方しかおらん」
「私にはそんな事が出来る自信はありません。いまやただの流浪人でしかない……」
「角や、私の弟の脩が押し拡めようとする教義は恐らく、事を成し遂げる前に滅んでしまうだろう。武に拠った革命では人々の心を捉える事は出来ぬ。人は道に沿って生き、そして死を超える事こそが黄老の教えであろうに。其方は如何思う?」
「はっ」
張世平は汗だくになって寝床から起き上がっていた。
「夢か。いや、夢ではない、ついに始まったか……」
蘇双は目をこすりながら寝床から起きた。夜の帳が明けようとしているが、外はまだ薄暗い。
「悪夢で魘されてたようですね」
「ああ、だが、ただの夢ではない。あれは本当だった。先ほど、張霊真殿にお会いした」
「霊真? あの張霊真ですか。彼は巴蜀の地にるのでは。ここは東郡の東阿県ですよ。まだ夢から覚めてないのですね」
「いや、夢ではない。わかるのだ。前も一度、夢の中で出会っている」
「夢ではないのに、夢の中で出会った、ですって。なんか、話がおかしくないですか。矛盾してますよ」
「そうだな、だが一つハッキリと分かったのは、遂に太平の道を知らしめ、漢の王室を糺す為の反旗が翻ったという事だ」
「それは三月五日が一斉蜂起の日だったんじゃ……。まだ一ヶ月以上も先ですよ」
「雒陽で先に事が露見したのかもしれん。それで蜂起がはやまったのだろう」
「何故そんな事がわかるんですか」
二人が話していた寝床の奥から一人の長身の男が現れた。
「世平殿の言っている事は間違いありません。東阿の県城にも賊軍が侵攻しています。今この目でしっかりと見ました」
この長身の男、姓は程、名は立、字を仲徳という。背は八尺三寸(約百九十センチ)もあり、 顎と頬に見事な髭を蓄えている。
髪はすでに白髪交じりで初老と言っても差し支えない風貌だが、英傑の気風を備えている偉丈夫である。
「賊軍が……まさか。仲徳殿、なんでこんな夜中にそんな事がわかるんですか」
蘇双は程立の言葉をまだ信じられないでいる。
「夜中じゃない、もう明け方だ。なにか胸騒ぎして、明け方に起きて見回りをしていたら、月明かりの中で賊が行軍しているのを見た。たいした数ではなかったが、それでも数千人はいるだろう」
汗を拭いながら張世平は程立に言った。
「もう来たか。早いな」
程立は髭を触りながら張世平に聞く。
「世平殿。あなた方も元は太平道の道士だった。このままでは街は破壊と略奪に曝されます」
張世平は静かに頷いた。
「太平道は抜けたが、黄老の道は捨ててはおらぬ」
この程立と出会ったのは、ほんの数ヶ月前ここ東阿県での事であった。
兗州東郡にある東阿県に張世平と蘇双が通りかかったのは、世平の故郷である隣の山陽郡に帰る道中だったからだ。
程立との出会いは血腥いものであった。程立は重傷を負った瀕死の状態で東阿の県城の付近に倒れており、たまたま通りがかったこの二人に助けられたのだ。
役人に追われているのは雰囲気で二人とも察しており、蘇双は当然ながら瀕死の男を助ける事に反対した。
「何で、見も知らずの怪我人を助ける必要がるんですか?」
「太平道は捨てたが、人の道まで捨ててはいない」
お前が手伝わないのなら一人でもやる、と世平は怪我人を介抱すると聞かないので、仕方なく蘇双は手伝ってやった。
太平道で習得した薬草と治療の技術で応急措置を施し、何とか命は取り留めたようだが、まだ予断は許さなかった。
二人は程立を安全な場所に移し、懸命の介護の甲斐もあってか、傷はすぐに癒えて体力も回復した。
程立が会話ができるほどに回復すると彼の素性を知った。どうやら東阿県で県の役人をする士大夫であったらしい。
しかし、東阿県の県丞(県の副長官)である王度という男に陥れられ、処刑寸前に刑場から逃げ出して来たのだという。
「王度は太平道と通じていたのです。必ずあ奴はこの東阿に災いをもたらす。なんとか阻止しなければ」
「とは言っても、我ら三人で一体、何が出来るというのです……」
蘇双は相変わらず無愛想な返答を寄越してくる。
「俺はあの王度に我が一族を滅ぼされているのだ。このまま黙っている訳にはいかん。早急に手を打たなければ、県令の命も危ういし、県下の住民たちも危険に晒される事になる」
「先ほども申しましたが、我らだけではどうにもならんでしょう」
「どうにかにしなければならんのだ! たとえ我が身一つ滅びようとも、必ずや王度を討ち取り、我が一族の恨みを晴らさねばならぬ」
「貴方だけで城内に戻ろうというのですか? 殺されに行くのと同じ事です。それでは貴方を救った我らの甲斐がなくなる」
蘇双と程立は口論になりかけていたが、張世平は両手を差し伸べて言った。
「まぁ、まて、子然よ。で、仲徳殿。何か策があるのかね」
程立は世平に向き直って冷静に話を進めた。
「世平殿、もちろん策はあります。救って頂いたこの命を無駄に散らしたりはしません」
世平は黙って頷いた。話を続けろと、無言で語りかける。




