第六十〇話 蜂起
張角、張宝、張梁の三兄弟が館内から群衆の前に現れると、一層、群衆の歓声が沸き上がって地響きが起こるほどになった。
「大医ぃ! 大賢良師ぃい!」
数万、いや数十万はいるだろうか。これだけの群衆を前にしても頂点に立つ三兄弟はまったく臆する事はなく、寧ろ感無量といった風に恍惚の表情さえ覗かせていた。
空は全面に渡って薄い雲に覆われており、朝焼けのせいで空が黄色く輝いているようにも見える。
張角は急に九錫の杖を勢い良く黄色い天空に向って突き上げた。すると更に熱狂的に怒声や罵声の如く激しい歓喜の声であたり一辺が埋め尽くされた。
「中っ! 黄ッ! 太乙ッ!」
張角は俯いて短く詠唱を済ませると素早く腕を真横に水平に伸ばした!下に向けていた顔を勢い良く上げると、猛獣の如く凄まじい眼力で獲物を睨みつける様に開眼する。
すると先ほどまで押し寄せる大津波のように沸き上がっていた大歓声は、さざ波が引くように静まり返っていった。
「諸君っ! 京師での事変はすでに聞いたであろう! 天子だと偽る者とその取り巻きが腐らせた政や不義乱心により、我が太平道の信徒の数多くは虐殺され、市場にその遺体を晒されているっ。こんなことがっ、こんなことがっ、許されるはずがあろうかっ!」
「否っ、否! 否っ!」
「真の帝とはッ、黄帝を置いて他にないっ。真の徳義を知らしめるのは太上老君を置いて他はないッ。高々遊び呆けるしか能がない偽りの天子などに何の意味があろうかっ。疲弊しきった民草に重圧と重税を課し、根こそぎ絞り取り貪り尽くす。今こそヤツら漢の社稷を断ち切り、黄天の世を起こそうではないか!」
「おう、応! 応っ!」
張角が捲し立てる怒声は、空を突き抜けるほどによく透り、信徒の大群衆は激しく煽られて蠢き、黄色い砂塵すら巻き起こるほどだ。
「我が太平道は中黄太乙の為に戦うっ! 故に我を、天公将軍っと称する! そして我が弟たちを、地公将軍、人公将軍、と称する!」
「おおおっ! 天公将軍っーー! 地公将軍っ!! 人公将軍っ!!」
古より伝わる三才と呼ばれる、宇宙の根源となる三つの才を、天、地、人とした。それを将軍の称号に当てはめたのである。
「諸君らにっ、諸君らの先勝を祈願する為にっ、生贄を捧げてやろうぉ!」
「おおぉおっーー!!」
張角が右手を上げると数人の従者が、手枷足枷を填められたまま鎖に引きづられる三人の男たちを、群集の前によく見えるように引っ張り出してきた。すでに暴行が加えられグッタリとしている。
「ううっ、だ、騙したな。温和な宗教だと思ったから、郡県での暗躍を黙認してやってたのに……」
絞るような声で、鎖につながれた男の一人が、泣きながら恨み言を吐いた。
「お前たちは太平道の勝利を祈願する生贄になる、そういう栄誉を与えられたのだ。有難く受け取られよ」
次男の張宝は小声で相手を諭すように言葉を返した。その横で張角は大きく息を吸い込んで、大観衆に向かって雷の様な声を張り出す。
「こいつらは、諸君らをっ、苦しめ続けた! この鉅鹿の民衆の血をたらふく吸った悪徳県令であるっ。故にこやつらの血をもって、黄帝に捧げるっ! われらに勝利をっ!」
県令か県尉か知らぬ高官の三人は無抵抗のまま跪いて頭を垂れ、もはや首を落とされるのを待っている。
その望み通り即座に首を刎ねられると、鮮血とともに自身の足元に転がった。その瞬間とてつもない躍動と共に群集の高揚感は最高潮に達していた。
「我らに勝利をぉおおっ!」
張宝、張梁の二人は足元に転がっていた血まみれの首を持ち上げて、群衆の前に掲げて言い放った。
「ついにっ、ついにっ、我ら黄天の徒がっ! 立ち上がる時がっ来たっーー!」
「ぉおおおっーー!!」
「城壁を突き破り、官を焼き尽くせぇええいっ。中黄太乙の道を天下に知らしめるのだぁ!」
「うぉおおっーー!! 中っ! 黄っ! 太乙っ!」
最後に、張宝と張梁の間にいる張角が呪文を唱えながら九錫の杖を地面に叩きつけた!
「我、雷公の旡っ、雷母の威声を以って、五行六甲の兵を成し、 百邪を斬断し、万精を駆逐せんっ! 急急として律令の如くせよっ!」
錯覚であろうか? 文言を唱え終えた瞬間に杖から光が放たれ、地面が少し揺れたように感じた。
「征けぇえいっ!」
それが合図となって、黄色い砂が水のように流れるが如く、黄巾を頭に巻いた群集が唸り声を上げながら蠢き始めた。
天地を劈くようなこの振動、轟たる地響きというよりは、小規模な地震が途切れなく続いているようである。
彼らの勇ましい出征を見届けた後、天公将軍は天を仰ぎ見てゆっくりと両手をあげた。
「中黄太乙よ。ひとまず、私の役目はここまで果たす事ができました。彼らを導き、お守り下さい……」
人には聞き取れないほど小声で囁いた後すぐに、張角の容態が急変していった。
「ぐぅうっ……」
胸を手で抑えて苦しそうに喘ぎながら、崩れ落ちるようにガクリと身体が倒れていった。
「兄上っ、大丈夫ですかっ」
二人の弟がすぐに張角の身体を受け止め抱き抱えた。顔を覗き込むと、先ほどまでの精気はまるでなく、木乃伊の如き肌の色になっていた。
「早く寝室に運べっ、大至急だっ」
末弟の張梁は周りの側近に大声で怒鳴りつけた。
「ううう、元節。元節はどこじゃ?」
張角は意識朦朧としながら、弟達の腕の中で魘されるように譫言を漏らす。
「元節……、いったい誰の事だろうか」
「さぁ……」
弟たちは偉大な兄が幽幻の世界にいるのを、ただ見守ることしか出来なかった。




