第六話 太平道
張倹は、太平道の基本理念を記した|太平《たいへい》|清領書《せいりょうしょ》を習読する日々が少し続いていた。
張倹も黄老道の教えをある程度の知識として持っていたが、敢て静かに教えを請うた。
儒の道を志していた張倹には、少々退屈な時間ではあったが、新たな知識として貪るのも悪くないと思った。
いや、そうでもしなければ正気が保てないからだ。
(勉学に勤しむ事だけが、今の私にとっては唯一の救いである。それが例え儒学でないとしてもーー)
だが、ふとした瞬間に自分の罪科を思い出す。自分の為に犠牲になった李篤や孔襃、弟の孔融はどうなっただろう。
おそらく悲惨な結果になったハズだ。しかも、禍災を被らせたのは彼らだけではない。
罪の意識と侯覧への怒りで、頭がどうにかなりそうだったが、道士らの話に静かに耳を傾け、気を紛らわせていた。
苛まれる日々の中、いつしか太平道の理念に感化されていく自分に気付いた。
太平道の根本である道の思想、身分を超越し人民の全てを救い、神仙の修練を積んで、この宇宙(世界を形作る全てを指す)の真理、道を探求する。
仁義礼智信を奉ずる孔子の教えも、素晴らしい経世済民の教えだが、体系の細分化が進みすぎ、それが原因で論争が絶えずウンザリさせられる一面もあった。
国家の社稷が腐り、乱世の兆候が近づきつつある昨今、懺悔によって天の救いと健康が得られる神秘的な宗教、太平道は魅惑の理想郷だ。
そんな日々を過ごす中、再び大賢良師である張角に相見える時がやってきた。本殿に多くの道士や信徒を集め、大集会が開かれる事となった。
当然、張倹もこの集会に呼び出され、最前列の並びに立っていた。いや、自ずから大賢良師に謁見したいと願う様になっていた。
この日は早朝から靄がかかっていたが、空が明るくなると靄が晴れて、数千人の集団が俄に声を上げ始めた。
鐘の音が数回鳴り響くと、十人ほどの道士が左右から進み出た。巨大で崇高な木像がいくつも並び立つ祭壇の前に、一定の間隔を空けて立ち並んだ。
そのうち、二人が祭壇の大木像に向かって祈祷を始め出す。この二人は張宝、張梁という張角の弟であり、最も信頼のおける張角の僕である。
二人の短い祈祷が終わると巨大な銅鑼が数回鳴り響いた。
「大! 賢! 良! 師!」
銅鑼のあとで、信徒たちの連呼が本堂に響き渡る。
すると祭壇中心の奥から、立ち込める煙の様に浮かび上がってくる人物が見えてきた。黄色の着物と冠を着け、節がいくつかある杖を持っている。
張角の持つ杖は九つの節があり、霊力を秘めているという。数字の九は古来より最高位の数として重んじられており、元来は王や皇帝に用いられる数字とされていた。
また「九」の発音が「久」と同じなので、永久に続くようにという意味もある。
「大賢良師様! 大医さま! 大賢良師様!!」
群衆の歓声が上がり、熱気で辺りが沸騰したかのようだった。狂った様に叫ぶ者、号泣する者、中には失神する者さえいた。
大賢良師……張角は、文言を数回唱えた後、杖を振り翳し両手足を大きく広げ、立ったまま大の字の格好となった。
その瞬間、地響きが鳴るほど沸き立っていた本堂全体が、ざぁっという轟音と共に静まり返った。
二本指を立てた左手を顔の前に置き、右手に持った崇高な九節杖で空に文字を描く。
「今、茲に諸仙、道祖、神聖、中黄大乙の御前で誓願し奉る。護身・鎮宅・救世・済人及び家を保ち、善行を施さんが為なり。
諸々の神仙、道祖も御照覧あれ。今より後、一心に忠孝・仁義・常倫の道に励み、決して天徳に悖る事を為さず。
願わくは、天下万民をたすけてこの学法を成功させ、神蹟赫赫として光芒万丈に達し、蒼生に福を賜らんことを」
十人の道士が一斉に黄色の布着れに筆を走らせ、護符を作り始めた。張角も護符を左手に持ちつつ独唱を続ける。
「我らが信奉する中黄太乙の名において、そなたらの罪を許す……」と最後に締めくくった。
中黄太乙とは黄老道そして太平道における最高神。太乙とは「太一」とも記され、唯一無二の神を意味する。
最後に「中黄太乙」という声と共に、すべての信徒や道士らが地に座して頭を垂れた。
「罪を告白していない者は、前に進み出でよ。告解のあとは、太平の安らぎを与える……」
張角は壇上から降り、信徒らの最前列を横に歩き出した。手を地につけ平伏している張倹の前で立ち止まった。
「お前はまだ己の罪を贖っておらんな」
身体がビクッとしたが、傍目からは気付かれなかった。朝の涼しさに反して張倹の額からは汗が流れ落ちる。
「恐れることはない。犯した罪をすべて告白し給え」
汗と共に涙が止め処なく溢れた。訳も分からず号泣した。嗚咽する声が本堂に鳴り響くのが自分でも聞き取れる。
「私は自分の生命かわいさに、息子や家族を捨て、師や友を裏切り、多くの善意ある人々に災いを齎しました」
張倹は少し嗚咽が落ち着いたところで罪を告白し始めた。
「そなたの罪を私も共に贖おう。私と共に祭壇の前へ」
張角は祭壇の方へ戻っていく。張倹は立ち上がれず、両隣の道士に脇を抱えられ、祭壇の前に運ばれた。
祭壇の前に立つ張角の足元に再び平伏して、目を閉じる張倹。
大賢良師・張角も両膝を地に付け、足元に平伏す張倹の肩に手をやった。
「そなたの仲間であった陳蕃は自刎し、竇武は自ら身を獄に座して死んだ。李篤と毛欽もそなたを庇って処刑された」
他の者には聞き取れぬ様に小声で張倹に語りかける。張倹も恐る恐る小声で張角に訊ねた。
「孔子の子孫、襃と融の兄弟、そしてその一族はどうなったか、ご存知でしょうか?」
「あの兄弟はお互いを庇い合い競って死を賜ろうとしたそうだが、弟は若いので死罪は免れたそうだ」
「襃は処刑されたのですね。融が助かったのは不幸中の幸いだった……」
「不幸中の幸い? 自分が如何程の事を仕出かしたか解かっているのか? お前を匿って投宿を買って出た者は一族郎党処罰された。一緒に党錮の獄を受けた士卒達は皆、お前のせいで壊滅したのだぞ!!」
「うぉおお! わぁああ!」
両手両腕を大きく空に放ち、天を仰ぎながら泣いた、そして泣き崩れた。あれほど号泣した後なのに、口や目から血を吐くほど大声で泣いた。
「よく聞け……張倹……」
両脇の道士が彼の身体を支えていたが、泣き崩れて抜け殻の様になった張倹に、黄色の布で出来た護符と水が入った茶碗を口に含ませすべて飲ませた。
「黄老をも超越する、我が太平道に仕えるのだ、張倹。そして私と共に、漢帝国を滅ぼすのだ。やってくれるな?」
張倹はゆっくりだが、大きく頷いた。張角の声は微かだが、張倹の朧気になってきた意識の中では、大きく響いた言葉だった。
「中黄太乙の名において、そなたの全ての罪を許す……」
水を飲んで少し経つと、経験した事のない幸福感に包まれ、底しれぬ高揚感が心の襞に染み渡ってくる。
「おお、感謝しますっ。有難う御座います! 大賢良師様っ、大賢良師様ーー!」
本堂がまた一斉に躍動し始める。一人の信者の為に皆が心を一つにし、一緒に罪を背負い、一緒に涙を流した。
大賢良師は張倹の名を皆の前では言わなかった。名も知らない素性も知らぬ一人の男の為に皆が祈っていたのだ。彼の背負っている罪が許される事を。
「お前は生まれ変わった。我らが黄老の兄弟となった。元節よ……いざ、我らと共に黄天の世に参ろう」
張角の弟である張宝、張梁が直々に張倹を立たせて黄色い着物を着せてやった。前に立ち並ぶ十人の高弟の道士が詠唱を始めだす。
「天、陰陽を失えば則ち其の道を乱し、 地、陰陽を失えば則ち其の財を乱し、 人、陰陽を失えば則ち其の後を絶ち、 君臣、陰陽を失えば則ち其の道理おさまらず、 四時(四季)、陰陽を失えば則ち災いと為る。 今、天は象を垂れて人の法と為す。 故より当に之に承順すべきなり」
高弟たちの詠唱が終わると、一呼吸をおいて張角が再び演説を始めた。
「太平の教えは道となりて中原を席巻し、蒼天の世を覆い尽くし、やがて黄色い天の時代がやってくるだろう。今日この日より八人の弟子たちを世に送り出す」
実弟の張宝と張梁はすぐ後ろに下がり、代わって八人の高弟が一斉に前に出た。
「青、徐、幽、冀、荊、揚、兗、予の州でそれぞれがこの太平の教え(道)を広めるのだっ。これより十五年後の甲子の年に我ら黄天の士は立ち上がる!」
甲子の年とは、陰陽五行における干支の一番最初の年(新生の年度)となる。本来、干支とは、十干と十二支を組み合わせた六十年周期ある中国古来の暦である。
「漢室の社稷はとうに腐り果て、天子(皇帝)などは、もはや天の使いでも何でも無いっ。役人たちは庶民から血税を絞り取り、雒陽の官たちは富と権力のための闘争に明け暮れ、天子はいたずらに快楽に耽るだけの俗物である!」
張角は最後に決め台詞を大声で発する。
「蒼天已死(蒼天はすでに死んだ)。黄天當立(黄天まさに立つべし)。歳在甲子(その年は甲子に在り)。天下大吉(天下は大吉となる)」
信徒や道士達も一斉に連呼する。大合唱は暗雲立ち込める蒼天の空に恐々として鳴り響いた。




