第五十九話 天公将軍
数日も立たないうちに馬元義からの知らせが張角のもとに届いた。さらに数日後には、一斉蜂起する為に太平道は全軍挙兵の準備を進めていた。
鄴とは春秋時代の斉の桓公が築いた城塞都市を始めとし、以来、長安、雒陽、許、などの大都市に並ぶ、冀州では最大の都市である。
「兄上っ、兄上っ!」
きらびやかで荘厳な鎧に身を包み、装飾の入った黄色い頭巾を被った二人の男たちが、大きな声を出しながら早歩きで奥にある部屋に向かっていく。
「大勢の信徒たちが、兄上の参上を待ちかねていますぞっ」
二人の鎧武者が辿り着いた奥の薄暗い部屋には、咳を繰り返しながら床に臥せっている白髪の老人らしき男がおり、口から零れ出た少量の吐血を服の袖で拭いていた。
「宝。梁。もはや、私はお前達の兄ではない。大賢良師を返上して神軍の将となる。これから始まる戦いに備え、我を天公将軍と呼ぶのだ」
「はい。兄……いや、大賢良師、じゃなくて……天公将軍。で、いかが致しましょう、信徒たちが貴方の姿をひと目みようと殺到しておられますが……」
かつては美しく長い黒髪の持ち主であった張角の容貌はすでに跡形もなく、やせ細った白髪の老人になっているではないか。
「うむ。少しだけ待ってくれ。発作がもう少しで治まる……。ごほっ、ふぅ……」
「だ、大丈夫でございますか。そこまでお身体が弱っておられるとは」
「今までは、ご、御符水でごまかしておった。だが、遂に限界が……、来たようじゃな……」
末弟の張梁は寝床の横の棚に散乱してある擂り鉢と、見慣れない植物の残骸がたくさん置いてあるのを横目で確認した。
「これは……まさか、あの散薬でございますか?」
次弟の張宝もこれに気付いて張角に問い質す。すると張角は二人の弟を睨みつけて言った。
「案ずるな……。大した事ではない……」
「しかし。徐州の、あの医者が言っていたではありませぬか、この薬は寿命を縮めると」
「ごほっ、か、華元化の事か。元化に教えてもらった薬の数々は人々を救い、太平道の普及に大いに貢献した。ただ、ワシにこの薬の事を教えた事を後悔しておったようだな。しかし、もう遅い。これのおかげで十年ばかりの間に強大な組織をこの中原に築く事ができた。それより、何を慌ただしくしておったのだ……」
「何を、って……もう外では信徒達が貴方が来るのを心待ちにしております。唐周の件で早まった蜂起の時期を今か今かと待ちわびておるのです。信徒らの動きを抑えるのは困難になってきています……」
「そうか。まさか唐周の裏切りがあるとは思わなかった。馬元義も逃げ切れたかどうかわからない。だが、案ずるな、馬元義がすでに一斉蜂起の為の檄(決起文)も各方面に飛ばしてある。ぬかりはない」
「しかし、いくら計画に抜かりがなくとも、貴方が居られなければ……」
「この大事な時期に、こんなザマとは、お前達には迷惑をかけるな。宝、梁。お前たちはそれぞれ、地公将軍、人公将軍、と称し、この太平道を捷利に導き、漢王朝の腐った根元を根こそぎ焼き尽くすのだ。その時が来るまでは、この天公将軍も死ぬ訳にはいくまい……。さぁ、その護符水を飲ませてくれ」
「これを飲めば、一時的に精気は甦るのでしょうが。寿命は縮まってしまう」
「私の死期は、すでに運命付けられている。その日まで、この、生命を全うするのみだ……」
張角は寝床からゆっくりと立ち上がり、暗い天井に向けて両手を上げ、天を仰ぐような姿勢をとった。
その間に二人の弟は、張角に綺羅びやかな衣装を着させてやり、左手には九錫の杖と、右手には宝石が散りばめられた宝剣を持たせてやった。
「貴方はこの度の蜂起で永遠の存在となる。この太平道はこれより、千年……いや、二千年の時を経ても栄え続けるでしょう……」
静かに二人の弟が膝をついて怪しげな呪文を唱えると、張角に護符の入った水を飲ませてやった。すると、老人のようだった張角の顔色にみるみると精気が戻り始めた。
最後に弟たちが張角の背中に向けて掌で喝を入れ大声を上げると、張角の目と口から火花が散るかの如く一気に大きく開いた!
精気の戻った張角は宝剣と九錫の杖を額の上で交差させた。
「人身御供だ! 用意しろ!」
そう言い放つと、部屋を飛び出るように起きて堂々と歩き始めた。
先ほどまでの病床で伏せっていた老人とは思えぬほど、颯爽と道館の通路を通り抜けて行く。その後ろには黄金色の鎧で身を固めた弟二人も並んでついていく。
だだっ広い道館の通路を抜けて外に出ると、そこには数え切れないほどの黄色い群衆が武装して歓喜の声を上げている。
「おお! 大賢良師のお出ましだ!!」
外の群衆が一斉に歓待の声をあげた。絶叫に近い雄叫びを皆が唱和する。
群衆を覆う黄色は、黄土色。北西部で産出される黄土は古代より黄色の顔料とされた。
土のように黄色い群衆の正体は、黄土で染織された頭巾を被った雑兵たちである。その多くは飢饉や災害そして重税を逃れるために行き場を失った流民であった。
黄色は定住する土地を求める流民たちの希望の色であり、人肌を表す人そのものの色でもある。
今にも爆発しそうな群衆が集まった先は太平道の本拠地、冀州鉅鹿県にある巨大な道観(道教の寺院)である。
太平道の隆盛はここから始まったのであり、今から最盛期を迎えようとしているのだ。




