第五十六話 唐周
「ま、待てっ、話せばわかる!」
男は暗闇の中で、蝋の明かりに反射した金色の光が何度も目に突き刺さるのを感じた。
「唐周。貴様ら虫けらの醜い蠢動は見るに堪えぬわ。今ここで貴様を成敗してくれる!」
「何故、なぜ、俺の名を……? お、お前は何者だ。何の事を言っているのだっ」
剣を持った男は、唐周を壁際に強引に押し付けて、左手で強く胸ぐらを掴み、右手の剣をゆっくり喉元に突き立てる。
「俺は天子に命を捧げる只の忠僕よ。貴様らも大賢良師とやらに命を捧げる覚悟で、京師に潜伏しているのだろう」
暗闇で顔は見えぬが、この刺客は間違いなく何顒だ。唐周を脅すために深夜の家宅に忍び込んだ。
「大賢良師? 一体の何の話っ、うっぐっ、っひい!」
ついに、何顒の持っている剣先が喉仏に少しだけ触れた。そこからは少量の血が垂れる。
「はうっ」
唐周は小さく悲鳴を上げたが、どうすることもできない。
「とぼけるなっ、貴様の名は唐周。大賢良師こと鉅鹿の張角に命じられ、京師に潜伏する謀者なのはわかっている」
「わ、わかった、そうだ、私は唐周だ。しかし、私は来たくなかったんだ。故郷の済陰で静かに太平道を信じて生きていければそれで良かったのだ」
何顒は唐周の喉元に突き付けた剣先をゆっくり降ろしたが、左手に掴んだ胸ぐらはそのままである。
「嘘をつくなっ。貴様が青州を統括する賊軍の渠帥であることは判っているのだぞ」
唐周の胸ぐらにある何顒の左手が、音を立てて力が入っていくのがわかる。今にも服が千切れそうなぐらいだ。
「ぐうぅ、ぜ、全部、話すから、まずはこの手をどけてくれ。ぐぅ、頼む、苦しい……」
何顒は突き放すように胸ぐらから手を離した。途端に唐周の身体が崩れ落ち、苦しそうに喘ぎながらしゃがみ込んだ。
何顒も剣を手に持ったままゆっくりとしゃがみ込み、じっくりと話を聴く体勢でいる。
「話次第では、助けてやらん事もない。但し、少しでも嘘を吐けば貴様は死ぬ。包み隠さず全て話すのだ。貴様らの計画を」
「ごほっ、ごほっ、はぁはぁ。わかった。命だけは……。話は長くなるが……」
唐周がいうには、太平道の信徒は八つの州にまたがって数十万人おり、その中で精鋭を正規兵として、三十六の方(軍隊)を編成しているという。
大方で約一万、小の方で六千から七千とし、それぞれに部隊長も配置された立派な軍組織がある事を伝えた。
「それほどの組織になっているとは。信じられん」
「太平道だけではない。近隣でくすぶっている賊どもにも呼びかけ、魏郡の鄴で大賢良師の号令の下、太平道の信徒たちが一斉に蜂起する」
表情を変える事はなかったが、さすがの何顒も背筋が寒くなる思いがした。
「貴様らの好きにさせてなるものか!」
何顒は再び剣を振り上げて、唐周を威嚇した。
「まてっ、まてまてまてぇっ! まだ続きがあるんだっ、聞いてくれっ」
唐周は必死に両手を振って命乞いを始めた。
「も、もうすでに、私の様な間者が数十人も京師に潜り込んでいる。俺一人殺した所で、どうにもなるまいて。それより、俺の命の保証をしてくれるなら、京師での蜂起を食い止める事はできるぞ」
「京師でも反乱をおこすつもりか?」
「ああ、秘密裏に計画が進んでいる。百姓(庶民のこと)だけでなく、士大夫や宦官などの多くの官吏もこの計画に関わっている。儒に異を唱える者たちだ。そして、京師の首謀者は馬元義という」
馬元義。曹操からは張角の腹心だと聞いている。
「馬元義か。 荊州や揚州で名の知れた道士と聞いておったが、きな臭いと思っていた。やはり反乱の先導者か。宦官の封諝、徐奉が呼び寄せたのだろう。ということは……」
「そうだ。奴らも馬元義と内応している。そして荊州や揚州から数万人の大方軍を三月五日の甲子の日に決起して京師を陥落させる計画だ。私は馬元義の部下として送り込まれたが、どうにも我慢がならなかった。青州の大方として信徒を率いる私が、あんな鼻持ちならぬ男の風下に立つなど……」
「くだらぬ身内争いなど、どうでもいい。貴様も反乱に加担して、漢の社稷を崩そうとしている事に違いあるまい」
「それは違うっ。青州の民は信仰厚く、武装信徒は精鋭揃い。だが、あくまで自衛の軍であって、反乱の為にあるのではない。その点では大賢良師との考えに食い違いがある」
「それなら、青州の反乱は貴様が食い止めろ。その前に、京師での蜂起だけは避けねばならん。内応している宦官はまだいるのか? 張譲や趙忠の名を聞いた事は? 正直に言え」
「張譲らの事は知らん。本当だ。だが、多くの宦官が内応していると聞いている」
やはり張譲は用意周到な男だ。足がつかないように対策済みなのか。張譲の件は曹操に任せるとしよう、と何顒は心中で呟く。
「いいだろう。貴様が助かる道は一つ、すぐにこの未曾有の大反乱計画を天子に上書するのだ。何としても未然に食い止めねばならぬ」
「どうせ上書しても宦官どもに揉み消されるっ」
何顒は剣をゆっくりと鞘に納めてから、唐周の顎髭をつまんで顔を上に向けさせた。
「では、これから貴様に上書する為の策を授けてやろう。私の言う通りにするんだ、いいな」
唐周は頭を大きく頷かせながら、何顒の話を真剣に聞いている。
「あとはお前次第だぞ。しくじるなよ」
そう一言だけ残して、何顒は暗闇の中に身を溶かして消え去った。




