第五十三話 扶桑
山の合間から見えていた太陽が昇りきる頃、劉備、関羽、張飛の三兄弟は足並みをそろえて下山してきた。
ほとんどの者たちはまだ雑然と寝いびきを立てていたが、一人だけ朝日を浴びて佇んでいる男がいる。
張世平であった。まるで三人の下山を待ち侘びていたかのように挨拶をした。
「おはようございます、玄徳殿。お待ちしておりました」
劉備は関羽と張飛の一歩前に出て、張世平に対し深々と頭を下げて挨拶してから、改めて世平に問う。
「おはようございます、世平殿。お待ちしておられたとは」
その言葉を耳にした蘇双は、頭を掻きながら寝ぼけ眼を少しだけ開いた。
「これから先、馬や武器が必要になるでしょう」
「ええ、そりゃもちろん。部曲として旗揚げしたばかりですから」
「私どもが馬と武器を用意いたしましょう」
寝ぼけながらも起きていた蘇双が、その言葉を聞いて飛び上がる様に、跳ね起きた。
「なんですって?」
蘇双の悲鳴にも似た大声に、数人の者が目を覚ましたようだ。
喜怒哀楽を表に出さない劉備も、さすがに驚きの表情を見せて問い返していた。
「それは一体、どういう事でございましょうか」
「実は、この付近の牧草地に馬を百頭ほど待機させております。武器や防具もそれなりに揃えてあります。旗揚げの準備に必要なものは、無償で揃えさせて頂きたいのです」
蘇双が血相を変えて張世平の目の前に飛び出してきて、大声で世平を怒鳴りつける様に言い放った。
「何と愚かな事をっ。行きずりのならず者どもに、タダで武器や馬を与えるとでもいうのですか? そもそも、あの馬は!」
その怒鳴り声に周囲の者たちは一斉に目覚め始めた。張世平は蘇双がすべて言い終える前に一喝した。
「士然っ、口を慎めっ」
張世平も顔を震わせながら蘇双に向かって怒鳴り返した。蘇双は世平の思いがけぬ大喝に口を噤んでしまう。
「大変失礼致しました。この者はまだ未熟ゆえ」
「いや、士然殿の言う通りだ。出会って間もない我等に、そんな過分なご厚意を。とんでもない話です」
黙っていた張飛が、ずいっと前に出てきて劉備の肩を持っていった。
「アニキぃ、これは天からのお恵みに違ぇねぇ。有難く貰っておくのが筋ってモンだべ」
「おめぇ、何いってんだ」
張飛の何気ない言葉を軽く遮るが、少々困惑気味である劉備。関羽も続けて張飛の後押しをするかの如く、劉備に言い聞かそうとする。
「兄上、私も益徳の言う通りだと思います。裸一貫で事を成す志はあっても、先立つものが無ければ、絵に描いた餅になってしまいます。ここは世平殿の厚情を頂戴致すのが、我等が志を遂げる為の一歩となるのでは」
関羽の言う事には少し耳を傾ける劉備であった。
「しかし何故、出会って間もない我等の為にそこまで……」
劉備はもう一度、張世平に問い返す。
「いや、昨日もお話した通り、十数年前に貴方と私は出会っているではないですか」
「それは子供の頃の話で、記憶などはおぼろげでしか……、ハッ!」
その時突然、劉備の脳裏に幼少の頃の記憶が鮮明に映し出されていた。我が家の隣にある巨大な桑の木の下で遊んでいたあの頃……、顔のゴツゴツした不思議な老人に出会った事。
張世平は大きな桑の木がある楼桑里の方を見ながら感慨深げに見つめている。
「今にして思えば、この楼桑里の近くを通ったのも何かの縁があったのでしょうな」
張世平はあの巨大な桑の木で劉備に出会った時の事を思い出し目を瞑った。
「今しがた、さらにはっきりと思い出して来ました。懐かしいですな」
劉備は表情を変えない。成長した彼は喜怒哀楽を出さない男になっていた。
「玄徳殿。貴方は二千年前の義和のお話をご存知かな?」
「いや、存じ上げておりませぬ」
そこへ関羽が二人の話の間を縫って入ってきた。
「義和の事は存じ上げております。五帝の一人、帝俊(舜)の妻であり、太陽の化身である、十の火鳥を生んだという母神です」
「その通り。義和は扶桑という巨大な桑の木の下で、子である火鳥(太陽)が巣立つのを世話している。そして息子である火鳥は扶桑の木から飛び立つのです」
張世平は山の谷間から起ち昇った太陽を指差した。皆いっせいに、張世平の指差した輝く太陽を目を細めて見つめた。
劉備は感慨深げに空を見上げてからすぐ視線を降ろし、張世平にしかと問うた。
「私は、あの太陽のように輝き、希望の光で人々を照らす事が、出来るというのでしょうか?」
「私にはそこまではわかりませぬ。ただ、貴方の目を見た時、十数年前に出会った時のままの志があるように思えたのです。そして、貴方とは、浅からぬ運命があるように思えてならないのです」
暫し二人は見つめ合っていた。少しすると世平はお辞儀して後ろに下がった。
「すぐに戻りますので、ここでお待ちください。それでは、後ほど……」
世平は振り返ると蘇双を連れて、劉備たちの目の前から消えた。
「なんだぁ? 結局なんなんだべ、あのじじいは……。何でオラたちがここで待だなきゃなんねえだ?」
去り行く張世平と蘇双を、腕を組んで鼻息荒く悪態をつく張飛。
「まぁ、待て。益徳」
関羽は髭を撫でながら張飛の肩を叩いた。張飛が振り返って劉備と関羽の表情を見ると、気長に待つつもりでいるのがわかった。




