第五十二話 旭光の誓い
「元節、いや、世平よ。聞こえるか……」
「え?」
聞き覚えのある声が夜空の向こうから響いてきた。
「その声は、霊真先生ですか?」
「ああ、私だ。君は元気そうだな……」
闇夜に浮かぶ星々が落ちてきそうなくらいに眩いている。霊真の姿は見えないが、すぐ近くにいるのはわかる。
「先生、どこにいらっしゃるのですか。何故お姿をお見せにならないのですか?」
「私も長く生きたからな。そろそろ逝かねばならぬ時が来たようだ……」
「そんな……、何があったのですか」
「君と別れてから色んな事があった。私は大蛇に飲まれたという父を探して方々を駆けずり回った。鶴に乗って昇天する姿を見たという者もいた。それから数年後、父の遺書が発見されて、私が天師道を引き継ぐ事になった。皮肉なものだ、あれだけ父に反発していた私が天師道を任せられるとは……」
現実とも夢ともつかない朧気な世界の中、世平は不思議と安らぐような心地になった。
「年甲斐もなく若き妻を娶り、すぐに男子も生まれ、子宝に恵まれた。私の年の離れた幼い弟の脩に、この天師道をいずれは引き継がせるつもりだ。だが……脩には角と似たような天性の気質がある。それが頼もしくもあり、また、大きな心配の種でもある……」
霊真の声が次第に物悲しく響いてきた。空の星々は輝きを失い、辺りが闇につつまれ始めた。
途端に世平の鼓動も早くなってきた。無音の世界で聞こえるのは自分の鼓動と息遣いだけ。
「どうされたのです、霊真先生。何も見えなくなってきました……」
「其方の未来はどうかな? 何か見えるか……。このまま太平の道を征く者として、何か未来が見えてくると思うか?」
「そ、それは、はっ!?」
ふと気がつくと、闇の世界だったハズの視界に、満天の星空が映っていた。背中に冷たく硬い壁を感じる。いや、背中に壁があるのではなくて、地上に横たわっているだけだった。
そう眠っていたのだ。すべては夢だった。いや、夢だったのだろうか?
「私は……」
思わず小声を漏らしてしまった世平。
「ん?」
その物音で劉備が目を覚ました。スッと起き上がると、あたりはまだ薄暗く、みんなイビキをかいて酔いつぶれていた。
「確かに、誰かの声が聞こえたような気がしたが……」
東の方にある山の谷間が少しづつ明るくなりかけている。季節は青葉しげる夏の盛りだが、明け方は少々肌寒く感じる。
もう一度辺りを見回すとやはり皆ぐっすりと眠っている。関羽や張飛、そして世平と蘇双の姿も見える。だが、やはり眠っているようだ。
「気のせいか。あれだけ酒を飲んだのに、今日は身体が軽いな」
スッと起き上がった劉備は、寝ている者たちの間をすり抜けて、道なき山を登っていった。それから少し歩くと、遠くの山々の景色が一望できる場所にたどり着いた。
まだ空の星々は降らんばかりに光輝いているが、濃い藍色のように少しづつ空に明るみが増してきている。
劉備は朝日が昇るであろう方角に、遠く目をやって待っていると、山の谷間から太陽の光がこぼれはじめる。
暁の天空に日が昇り始めた頃、後ろに人の気配を感じて劉備は軽く振り返った。
そこには、すっきりとした表情の関羽と張飛が、同じく朝日を眺めている。昨日の酒など微塵も残っていない様子だ。
「来ていたのか、お前たち。俺の後をつけてきたんだな」
「何故か、目が醒めましてな。貴方が目覚めたのと同じくらいに」
「おう。おいらもたぶん、同じぐれえに目が覚めたっぺ。それにしても、やけにスカッとした朝だな」
劉備、関羽、張飛の三兄弟は、黄金に輝く日の光に中に包まれて、神々しく輝いている。
「なぁ、益徳。お前は何を思ってこの山麓に籠もっていたんだ?」
劉備は登りきった太陽を見つめながら、張飛に訪ねた。
「おいらは……、俺は、仕えるべき主を待っていたのかもしれねぇ……。兄貴のことさ」
張飛が言ったのは、戦いの最中で関羽が言った言葉だった。劉備は振り向きもせず鼻で笑った。
「そうです。我々には仕えるべき主がいる」
関羽も張飛に続いて言った。劉備は朝焼けの中でもう一度、二人の方に振り返った。
「俺について来るか。茨の道とわかっていても。乱れた世を糺し、民を導く道標となる。それが漢室の屋台骨を再び立て直す唯一の道だ」
劉備の問いに二人は無言で頷いた。そして劉備も頷いた。
「ここで改めて、俺たち三人。誓いを立てないか?」
眩しく輝く日の光に目を細めながら、劉備は腰に帯びていた剣を抜き、頭上に掲げた。剣先は、関羽と張飛の頭上にあり、まるで光の剣のように煌めいている。
「生れ落ちた日はそれぞれ違うが、せめて死する時は同じ日を選ぼうではないか!」
関羽と張飛はお互い顔を見合わせて頷き、持っていたそれぞれの武器を掲げた。
関羽はもちろん愛刀の青龍偃月。張飛は手持ちの剣をそれぞれ頭上に翳して、三つの武器を重ね合わせた。
「我等、生まれし日は同年同日ではなくとも!」
「願わくば死する日は同年同日であろう!」
「って事だな!」
本来なら、義兄弟に契りに交わす文句があるのだが、張飛には続く言葉がなかった。それでも二人は気にすることなく、大きく頷いた。
黄金に煌めく旭は龍の如く高く昇り始め、旭光の粒子はさらに激しく三人に降り注ぎ、まばゆく白みを帯びていく。
その光の中に包まれて三人の影は一つになっていった……




