第五話 張霊真
張倹は歩き回れる様になると、自分の匿われているこの寺院らしき敷地内を粒さに見て回った。
非常に広大な境内を持つ寺院で、中にいくつも屋敷があってそれぞれの機能と役割を担っている様子だ。
皆はこの寺院の事を『道観』と呼んでいるようだ。そして、信徒たちの事を『道民』と呼び、太平道の教義を修めた者を『道士』と呼んだ。
中央の敷地では数百人規模の軽装だが黄色の頭巾を被った兵士達が軍事演習を行っており、その前方の高台の上に堂々たる祠廟がある。
大きく長い黄色の布を数枚垂らした門前からは、道民の出入りが活発に行われ、活気の中にも目には見えない規律があり、統制がとれている様子である。
敷地の外に出てみたいという思いがあったせいか長時間かけて歩き続け、広大な敷地の果ての複雑に入り組んだ小さな街の様な建造物の密集地にたどり着いていた。
質素な建物だが至る所に大きな黄色の布が垂らされ風に揺られていて、まるで黄色の布に覆われているかのようである。
通気の為か窓が少しだけ開いていて、そこからは嗅いだ事のある草の臭いが立ち込めていた。
そう、顔や腕に巻かれた包帯から放たれている薬草の臭いだ。ドクダミやオオバコといった独特な匂いがする。窓から覗き込むと白い布を纏った人物が数十人で草木の選別や精製を行っている様だ。
目以外の顔面まで覆われた白い頭巾をかぶっている者もおり、色んな種類の生薬が各瓶ごとに入れれられており、その数はざっと見ただけでも数百種類はある。
かつて「神農本草経」なる医薬の研究書があるという話を耳にしたことはあったが、ここまで組織的に大掛かりな医薬、薬草を取り扱ってる施設があるなど想像した事もなかった。
「方術に興味があるのかね?」
突然、背後からボソっと声が聞こえ、「うわっ」と思わず声を出してしまった張倹。
振り向くと白色い布を纏った初老の白髪の男がいた。短い白髭を蓄えた唇を尖らせ、人差し指一本を出し、小さい声で喋り始めた。
「しっ。ビックリさせてしまったね。すまん、スマン。あなたは張(倹)元節どのですな」
「そ、そう、私が元節です……。貴方は……一体?」
「ここで研究をさせてもらっている者さ」
方術の研究者……というよりは、すでに仙人の域に達しているかのような不気味さがあった。
そもそも何故、自分の名を知っているのか。動揺からか心とちぐはぐの質問をしてしまった。
「これらが方術というものですか?」
「ほんの一部だよ。方術とは医経、経方、房中、神仙……この四科を総称していうのだ」
医経とは医学を指し、経方は治療薬、房中は性生活における養生術、神仙は『真人」』目指して長寿になる秘法を説く。
それはともかく、張倹は突然の事にビックリして、相手の名前を聞くのを忘れていた事に気づいた。
「私の、名前かね? そうだねぇ。最初に名乗るべきだったな。私は張……霊真という者だ」
張霊真という、この男……人の心が読めるのであろうか? まだ名を聞いてはいない筈だが。
「張……霊真……」
「それにしても、ここらの義舎に入ってくるとはよっぽどの物好きだね。一般の道民(信徒)や低級の道士では入れない場所なんだよ」
一般の人間が侵入できない場所に無意識に迷い込む。そんな事があるのだろうか。
「あるとも。道を感じているならな」
「な、何?」
またしてもこの白髪の男、人の心の声を読んだ。たまたま自分の心で思いつぶやいた言葉と、彼の言葉が偶然繋がっただけなのか?
そして、道とは…、黄老道における根本を成す哲学の基礎である事は、張倹も知識として持っていた。
「この事は大賢良師には黙っておいてあげよう。お互いの為にな。角には無い才能がキミにはありそうだ」
張霊真と名乗るその白髪の老人は小声で喋った後に、少し冷徹な笑みを浮かべていた。
その笑みに少し不気味さを感じつつ、それとは裏腹にまったく別のことで「ん、まてよ?」心の中で呟く。
「角? そうか、最初の党錮の獄の前から知っている、やはり会った事がある。張角、大賢良師とは……張角の事だな」
小声だが、力強く言い放つ張倹。彼の記憶は堰を切ったように止めどなく思い出し始めた。そう、あの男、張角……。
張倹が追われる身になる三年前に起こった後漢末期の政変……いわゆる第一次党錮の禁において、張角は清流派の名士に属していた、という事である。
その張角は知性も見識もあり、そして人を惹き付ける力があった。
特に黄老道に明るかった事から桓帝に気に入られていた様だったが、党錮の禁では清流派知識人として免職され政界から追放されてしまっていた。
その後の消息は知らないが恐らく故郷である冀州の鉅鹿に帰ったのではないかという噂を耳にした事があった。
「もしかして、ここは鉅鹿なのか?」
「おい、それぐらいにしておけ。君がここに進入した所を誰かに見られては面倒だからな。すぐにこの宮館から離れよう」
張霊真に言われるままにその機密事項を扱う建造物から離れ、彼の後について恐らくは近道であろう道筋を歩いていく。
こんなに歩いたのだろうか? と思うほどに帰路は時間がかかり、張倹が療養していた施設に戻った頃には夕刻になっていた。
「この事は内密にな。そのうち、私達は長い旅に出る事になる。その旅先でまた会おう」
帰路はまったくの無口だった張霊真は、最後にそう言うと、気配を残さずに消えていく陽炎のようにいずこかへ去っていった。一体、なんだったのだろうか?
夜には、道士達に包帯の換えと傷口の治療をしてもらい、食事も頂いた。傷口からはやはりあの薬草のにおいがした。
いずれもう一度あの張霊真という男に会う気がする。もしかしたら後の運命を左右する邂逅なのかもしれない。




