第四十八話 張飛
楼桑村の近くにあるその山では、張益徳の率いる荒くれ共と、とある馬商人達との間で、すでに一悶着起こっている様子である。
「何度もいうが、オイラはなぁ、馬を数頭ほど貸してくれと頼んどるだけだでぇ。山賊の類と勘違いすんじゃねぇべや」
「馬鹿言うんじゃねぇ。出会ったばかりの奴に馬をくれてやるお人好しがいるかよ!」
「くれとは言っでねぇ。貸せと言ってんだべや。わがらねぇ奴だなぁ。お前、蘇士然とか言ったな? あんまり調子に乗るなよ」
掌を重ね合わせて指をボキボキと鳴らしながら張飛は凄んでいる。相手の蘇双は張飛の挑発にたじろいで口篭もってしまった。
張飛の身長は八尺(約百八十五センチ)あり、肌は毛深く茶褐色、上半身は首から肩にかけて筋肉で覆われ、腕ではまるで大木から切り出した丸太のよう。 字は益徳、名は飛という。
雷の様な眉の下には、まん丸の団栗眼が黒光りし、岩のような顎には耳もとから口周りにかけてうっすらと鬚が生えている。
まだ少年のあどけなさが少し残ってはいるが、顔全体が豹の如く動物的で荒々しい印象を与える。
「士然よ。あまり事を荒立てぬ方が良いぞ」
蘇双の背後から、顔が岩の様にゴツゴツした白髪の老人が現れた。
「しかし、世平様。この男はタダで馬を譲れと脅してきてるんですよ? 山賊と変わりゃしないですよ」
「だから、山賊じゃねぇって言ってんべや。マジにキレるぞ、おらぁ」
張飛が大声を張り上げて露骨に怒ってみせた時、一人の部下が何やら報告の為に駆け寄ってきた。
「益徳さん、人集りがこっちの方に向かってきてっぺ」
「んだぁ? どっちからでいっ」
張飛はその部下の胸倉を掴んで引き寄せ、大声で怒鳴りつけながら質問した。するとその部下は諤々と震えながら後ろの方向を指差した。
「どこの馬の骨か知らねぇが、俺がひとつ挨拶してやっぜ」
掴んでいた部下の胸倉を放して、指差した方向に走り飛んでいく張飛。
劉備が数十人の部下を率いて来たのを遠くから見て、官兵が来たと勘違いした張飛の部下たちが山の麓から飛び出して来た。
「おい、ありゃあ官兵か? なんなんだアイツらぁ」
張飛は遠くに見える劉備の集団を指して、一報を入れた彼の部下を睨み付けた。
「ひ、す、すみません。あっしもよくわからんでげす」
「けっ。まぁ、どんな奴らか様子見がてら、ちょっくら挨拶でもしでやっか」
張飛は率いてきた彼の部下たちの先頭に立ち、大声を張り上げた。
「オイラぁはな、燕人の雄、張益徳だぁ! てめぇらは一体、何モンでぇいっ。名を名乗れい!」
涿郡を含む幽州一体は、春秋戦国時代に覇をなした燕国であった。彼は幽州一の英雄だと豪語する。
かなり遠くの位置からでも響いてくる張飛の怒鳴り声に、皆が驚きを隠せないでいる。
驚く者たちをよそに、簡雍は劉備に近づいてそっと耳打ちする。
「玄徳あにぃ。益徳が率いでるのは兄ぃの子分だったヤツらだ。兄いの顔を見たらすぐに投降すんハズだ」
「それはわかっている。ただ俺はなぁ、雲長と益徳を鉢合わせて二人の実力を見てみたい、と思ってる。少し、あの二人を戦わせてみるつもりだ」
「え……、あんの怪物みてぇな二人を戦わせたら、お互い無事に済まんぞ」
「まかせておけ。もしもの時は俺が体を張って止めてみせる」
「本気で言っでんのか、兄ぃ」
「大丈夫だ。まぁ、お前は黙って見ててくれ」
劉備の率いる集団はお互いが良く見える位置まで来て、張飛の待つ山の麓の手前で横一面に整列して立ち止まった。
「てめぇらぁ、何モンだぁ! 名を名乗れと言ってるべや!」
ともう一度、張飛が大声で大喝してくる。そこへ劉備がズイっと前に出て言った。
「益徳っ、俺の顔に見覚えないか?」
「誰だぁ、アイツは?」
もう一歩前に飛び出した張飛はさらに大声を張り上げた。
「まだよぐ見えねぇ。もっど前に出で来い!」
「それは出来ねぇなぁ」
「んだとぉお!」
張飛が遂に怒りを顕にして矛を片手に持ち、単身で勢いよく飛び出して来た。猪突猛進という言葉を絵に描いたような走りぶりで向かってくる。
「うおおおお!」
彼が近づくに連れて、彼の恐ろしい風貌がわかってきた。肌は浅黒く上半身の肉付きが素晴らしい。怒りで髪は逆立ち、真ん丸の目玉と、大きく開いた口は火でも吹きそうなくらいだ。
それを見た劉備の部下達は恐れをなして後ずさりし始めた。張飛の物凄い突進力に圧倒されて、眼前の空気が重く圧し掛かってくるようだ。
「雲長。あの猛獣みたいな男と戦えるか?」
「造作もない事です。あ奴を打ちのめして参りましょう」
「なるべく、怪我はさせない様に頼むぞ」
「怪我の一つや二つは覚悟してもらわねば。まぁ、殺さない程度に痛めつけてやりましょう」
「やれやれ。なんとかならないのか?」
「私の勘では……、あの男は相当やるようですな」
自信満々だった関羽の表情が、多少こわばった。張飛が近づくにつれて関羽もまた驚異を感じたのだろう。
それと同時に、自分に驚異を感じさせる男がいる事を、嬉しくも思った。今まで出し切った事のない自分の力を存分に吐き出させる相手が目の前にいる事を。
関羽の表情を見た劉備は、自分の浅はかな行為に後悔を感じ始めた。二人を戦わすべきではなかっかもしれない、と。
劉備の思惑を思い留る間もなく、戦いの火蓋はすぐに切って落とされた。




