第四十六話 我が家
念願の我が家に辿り着いた劉備は、健在であった巨大な桑の木に一礼してから、自分の家の玄関を開けた。
劉備の想像ではそこに年老いた母がいる筈だった。母がびっくりする表情を思い浮かべていた。いや、母の事だから、皮肉混じりに自分をどやしつけてくるかもしれない。
だが、薄暗い部屋の中を探したが人影は見当たらない。ただ、巨大な置物が部屋の隅に置かれてあった。
巨大な置物が気になった劉備は、目を凝らしてよく見ようとした。すると、置物が動いたのだ。
しかし劉備は動揺する事なく、すぐに剣の柄に手をかけた。
「だれだっ、貴様! なぜ俺の家に上がり込んでるっ?」
その巨大な置物は人だった。壁にもたれ掛かって座り込んでいただけだったが、部屋の窓が締め切られて暗かった為に判別がつかなかった。
置物に見えたのは、影があまりにも巨大に見えたからだ。その巨体はゆっくりと動き出し、そして低い声で言葉を放った。
「『俺の家』だと……? ここは私の義兄、玄徳どのと、その母の家だ」
巨大な男……劉備が若かりし少年時代に命を救ってやった男。そして劉備が名を授けた男――関羽、字を雲長――が座っていた。
「おめぇ……もしかして、関雲長か? 俺だ、劉玄徳。お前の兄だ」
そこにいたのはかつて自分が救った男、関羽だった。しかし、その髯はさらに長く美しいものになっており、劉備の一つ年下とは思えないほどの貫禄を身に付けていた。
「私を憶えていてくれたのですね、玄徳殿。貴方が帰ってこられるのをお待ちしておりました」
関羽は立ち上がって一礼したが、天井に頭をぶつけそうになった。劉備はそんな事に目もくれず母の居場所を問うた。
「何だとっ。俺の母はどうした? 俺の母ちゃんは、どこに行ったんだ!」
劉備が大声で関羽に怒鳴りつけると、関羽はその細い目から大粒の涙を流し始めた。
「申し訳ありませぬ」
「なにぃ、どういう意味だ。 なんで謝る?」
劉備は関羽の胸倉を掴んで、大声で捲くし立てた。
「疫病だったのです。う、うう」
劉備はすでに判っていた。もうこの世に自分の母はいないのだ、と。それでもどうしたら良いのか分らず、ただ関羽を怒鳴りつけていたのだ。胸倉を掴んだまま顔を伏せ、劉備はたまらず泣き崩れた。
「母ちゃん……」
大の男が二人抱き合って泣いた。暗い部屋の中で大声をあげて号泣した。
「私は、貴方の言われた通り、私はこの楼桑村にやってきました」
関羽は泣き崩れている劉備に向かって、涙を流しながら話を始めた。
「そして、その大きな桑の木に見惚れて、ずっと木の下に座っていました。そこへ話しかけてきてくれたのが貴方の母上でした」
「そうか、そうか……」
「貴方の母上に全てを話しました。解から出奔してきた事。玄徳殿に命を救われた事。貴方の母上は、見ず知らずの私の話を信じてくれて、面倒まで見てくれました。う、うう」
関羽も劉備も手を取り合って、子供のように泣きじゃくり続けた。
劉備の母は自分の死を、勉学に励んでいる息子には伝えないで欲しいと、関羽に懇願して亡くなっていったらしい。
「母ちゃんは、俺の母ちゃんは、いつ逝ったんだ……」
「もう、一年も前です。貴方の代わりに私が息子として喪に服しました」
「一年も前の事だったのか」
「はい。今年の疫病では多くの村人が逝かれたそうです。徳然殿の父上も数ヶ月前に亡くなられました」
「そうか。俺は親不孝者だな。ううう、母にも叔父にも何の恩返しもできなかった。ぅおお!」
大声を上げて泣き崩れる劉備。関羽も嗚咽するほど泣いた。泣き疲れ果てるまで二人で泣いた。
「俺の代わりに、母ちゃんを看取ってくれて、ありがとな、雲長。お前は、お前は、俺の弟だ……」
「はい、兄上……」
一頻り泣き、悲しみのほとぼりが一旦冷めた頃、劉備と関羽は家の外に出た。空はすでに日が暮れようとしている。夕焼けの光が雲に赤く照らされていた。
燃えるように焼けた空に、巨大な桑の木が黒く映えている。そんな大木を眺めながら二人は話した。
「俺は子供の頃、この木を見上げてよく言ってたんだ……。この木みたいに立派で高貴な蓋車(皇帝の乗る馬車)に乗ってやるんだ、ってなぁ」
「蓋車……。私は実物を見た事はありませんが、そう言われたら、そういう風に見えてきますなぁ。貴方の母上から聞きました。皇族の血を引く家柄なのだそうですね」
「ふふふ。中山国の靖王の血筋だったって話だ。近い将来、必ず乱世になる。俺は、その乱世に乗じてのし上がり、わが楼桑村の劉家を再興させる」
「この桑の生い茂る美しい場所……」
関羽は沈みゆく夕日に思いを含めてそう言った。
「場所はここでなくとも構わない。俺たちは所詮、流浪の身。いつか、もう一つの故郷と呼べる地を、俺はこの手で掴む」
劉備の目の前で片膝をつき、関羽は頭を垂れて誓った。
「私もお供させて下さい。必ずや貴方の手足となって獅子奮迅の働きをしてみせましょう」
「ああ、お前は俺の頼りになる弟だからな。これからもよろしく頼むぜ」
「はい……」




