第四十五話 田予
劉備が河南尹(河南郡)緱氏県にある盧植の学舎に通い始めてから、すでに七年もの月日が流れていた……
盧植はすでに中央政界に復帰して侍中という役職に就いていた。皇帝の側近として相談役を務める任務だ。
それに伴って彼の学舎は愛弟子の張鈞に引き継がれていた。公孫瓚は一足先に故郷に帰り太守の劉基の元で職務に就いている。
劉備はより勉学に励むという理由で雒陽近辺に残って生活していたが、それはあくまでも遊びたい一心での自堕落な理由だった。派手な服に身を包んで、同類の悪童たちとつるんで遊び呆ける毎日。
しかしながら、悪童で鳴らした劉備も二十歳になる頃には、子供っぽいあどけなさは抜けて、大人としての嗜みが身についた。
特徴的だった耳はさらに大きくなり、腕も手先が膝に届くほど長くなった。横柄だった十代の後半はとっくに過ぎ去り、口数は減って喜怒哀楽が顔に出なくなっていた。
それだけではなく、人に謙って接する様になり、元来持っていた親分気質がさらに開花した。
「親分! 今日の酒代だぜ。遅くなってすみません……」
「うむ。ご苦労だったな、国譲。いつも悪いな」
劉備の元には競って任侠の徒が集まっていたが、この国譲という若者だけはいつも特別扱いしていた。
姓名を田予といい、字は国譲。二十歳になったばかりの少年だが、頭が切れる上に胆力もある。
公孫瓚の付き人として緱氏県に来ていたが、いつしか劉備と共に悪童たちとつるむようになっていた。
「そういや、聞きましたか? 伯圭どのが、京師に帰ってきてるそうですよ」
「なんだって? 伯圭兄貴が。どこにいやがるんだ?」
公孫瓚は故郷の遼西郡太守の娘婿だったので、数年前に帰郷して官職に就いていたが、太守の劉氏が罪を犯した角で、公孫瓚も従者として雒陽にまた戻っていた。
「今は会えないですよ。太守に忠誠を尽くしている最中なのだとか」
太守は南の最果てにある日南郡に配流される事になったが、公孫瓚も一緒にお供するのだという。
「立て込んだ話か。兄貴には世話になったから挨拶くらいしたい所だな」
「それはやめておきましょう。またいつか会える日がくる筈です」
後日、太守が赦免された為、公孫瓚も故郷に帰れたという。世俗に疎い劉備はこのように、情報通の田予から雒陽の噂を仕入れていた。
「それより、親分の故郷で恐ろしい疫病が蔓延している、って話を聞きましたか?」
「本当か? なんでそれを早く言わないんだっ」
劉備の大きな耳が動いた。彼と徳然の故郷、涿県の楼桑村で、死に至る疫病が流行っているのだという。
「俺の故郷も涿県に近いですからね。地元の者からの情報でついさっき仕入れた所ですよ」
田予の故郷は幽州漁陽郡雍奴県にある。涿県とはそう離れていない。
「そうか……。知っての通り、数ヶ月前から叔父の送金が途絶えていた。何かの手違いだと思っていたが、そういう事か、急いで帰らなければ……」
徳然の父で劉備にも出資してくれていた彼の叔父の、劉元起からの送金が途絶えていたのである。
「親分、やっぱ故郷に帰るんですね。俺も連れてってください」
「ああ、俺もそう言おうと思ってた所だ。まずは山に帰って徳然も連れて帰るぞ」
劉備と田予は急いで緱氏県の学び舎に戻り、徳然を迎えに行った。
「徳然、聞いたかっ。俺たちの故郷で疫病が流行ってるらしいぞ」
久しぶりに徳然の顔を訪ねた劉備。熱心に勉強する徳然と、日々遊び呆けていた劉備は、お互い故郷から離れて同じ学び舎で勉学に勤しんでいたハズが、すっかりすれ違いの日々が続いていたのだった。
「兄さん、私も聞いております。旅支度ならもうすでに済ませました。一緒に帰りましょう」
「お前も知っていたのか。それなら話は早い。すぐに発つぞ」
徳然は劉備が噂を聞きつけて自分の元にやってくる事を察知していたのだろう。少し大人びた徳然を見て劉備は少し感心していた。
盧植の私塾の塾長となった張鈞に事情を説明して、事情により帰郷しなければならないのだと話した。張鈞は快く了承し、幾分かの小銭さえ劉備に持たせてやった。
劉備は深く張鈞に感謝し、盧植の私塾がある緱氏県を離れ、彼らの故郷へと戻っていった。
田予だけでなく、劉備の遊び仲間だった子分たちも、頼んでもいないのに数十人ほどぞろぞろと付いてくる事になった。
故郷への帰りの道中、劉備と徳然はほとんど喋る事はなかった。漠然とした不安だけが二人の空気を包んでいた。
数十日間の帰路を経てようやく帰り着いた故郷。劉備は付いて来た子分達を楼桑村の外で待たせる事にした。疫病が流行っているという話だったからだ。
劉備は徳然を連れて楼桑村に入っていく。美しかった桑の木が並ぶ景観は、見るも無残な枯れ木が立ち並ぶ、廃墟の様な風景に変わり果てていた。
桑の木もなんらかの病気にかかって朽ちてしまったのだろうか。劉備と徳然の不安はより一層確かな実感として肌身に伝わってきた。
しかし、あの巨大な桑の木だけは、相変わらず凛として天に向かって立ち昇ったままの姿であったのだ。
「良かった……」
劉備は遠くから見えた自分の家の庭先にある桑の巨木が、まだ健在なのを知って安堵の声を漏らした。残念ながらその安堵はすぐに立ち消える事になる。
「兄さん、私は自分の家を見てきます」
「ああ……」
徳然は悲しげではあるが悠然として劉備の前から去っていった。劉備も身を引き裂かれる様な胸の苦しみを味わいながら、自分の母が待つはずの我が家へと向かっていった。




