第四十三話 苗
そして、十年後の今再び、曹操はまた何顒と出会った……。
「私のことを、思い出してくれたかね?」
回想中だった曹操は我に戻った。そして、何顒の言葉を無視して袁紹の方に顔を向けた。
「本初さん、これはどういう事ですか?」
苛立ちを少し顔に出した曹操は、鋭い目付きで袁紹に質問する。
「どういう事……とは?」袁紹も少し含み笑いしつつ、とぼけるように言い返す。
「オレはかつて……この男のおかげで、命を落としかけたんですよ?」
「何伯求殿と其方に何があったかは私も聞いている。だが、彼は党錮で投獄された者達を救うため、身を賭して奔走していたのだ。悪気はなかったのだよ」
すると何顒までもが含み笑いし始めた。その上、曹操に投げかけた言葉は辛辣であった。
「君のおかげで漢の社稷はさらに腐敗の度合いを増していったよ。あの奸賊を討てなかったのは、今でも悔やまれて仕方ない。あれ以来、張譲の警備は厳しくなってしまったからな」
もちろん、曹操も負けじと言い返す
「オレは偶然あの場に居合わせただけだ。張譲を始末できなかったのはアンタの腕が未熟だったからだろう? 例え、張譲を討っていたとしても、漢室の局勢に大した影響はない。根本から変革しなければ漢室の未来はない!」
色をなした曹操をよそに、何顒は目を閉じて再び高らかに笑い始めた。
「何が可笑しいっ」
さらに激昂する曹操に対し、何顒は咳払いして笑いを止め、服を正して改めて真剣に語りかけた。
「やはり、私が見込んだ男だけの事はある……と、思ってな」
「なっ、どういう意味だ?」
剥き出しにした怒りの矛先を、上手く去なされた曹操は、何?の言葉に戸惑いを隠せずにいる。
「本初殿、良かったら少し、孟徳くんと二人きりでお話しさせて頂きたいのですが、構いませんか?」
さらに不意打ちを喰らわす様な何顒の言葉に、袁紹も驚きを隠せない。
「孟徳はかなり立腹している様子ですが、火に油を注ぐ事に成りかねないのでは?」
「大丈夫。心配はご無用です。これ以上、彼を怒らすような真似はいたしません」
袁紹も三人で積もる話を語りたかったのだろうか、少し残念そうな表情を見せて、彼の住む小屋の様な屋敷に入っていった。
「少し歩こう、孟徳くん」
言われるが侭に一緒に肩を並べて歩き始める。歩いていくごとに、曹操の顔からは怒りの表情は消え失せ、戸惑いの気持ちもまた消えていった。
「あの時は済まなかったな。君を危険な目に合わせてしまって。しかし君なら必ず切り抜けられると思っていたよ。そしていま、実際に生きている」
「こちらこそ、先ほどは失礼致しました。それにしても、あの頃の貴方はもっと派手な服を着てましたね」
「今はおかげでこのザマさ。ボロ着が似合うだろう。ははは」
「ふ、伯求殿。私に何か伝えたい事があるのでしょう? ハッキリ言って下さい」
「うむ。その前にいくつか尋ねたい事がある。何で君は張譲に近づいている。本初も気付いているぞ」
「まぁ、貴方の想像通りです。あの場を逃げ遂せた後に、張譲から呼び出しがありました。私の腕を買いたいと」
「つまり、立身出世を餌に、奴の元で下働きをしろとでも」
「ええ。彼が世話になった私のお祖父様を話に持ち出し始め、私の父上の出世の斡旋をしている事も」
「奴の目当ては、君の祖父、大長秋が得た莫大な遺産か」
「それだけではないようです。あの張譲には、さらに重大な秘密があるのです」
「秘密か。その情報は掴んである。太平道だろう?」
「もう、すでにご存知でしたか」
「確証を得た情報ではなかったのだが。張譲に近い君がそう言うのだから間違いないな」
「私も本人から直接聞いた訳ではありません。 北部尉として門の警備に応っている頃に、切っ掛けがあったのです」
「ほう」
「私は、弛んでいた禁令を匡正する為に、横行していた夜間の通行を厳しく取り締まりました。ある時、禁令を破った高官を打ち殺してしまった事があったのですが、その高官こそ小黄門・蹇碩の叔父でした」
「……」
「そして、遺体からとんでもない物が見つかりました」
「もしや……」
「そうです。張譲の密書です。彼は馬元義との密約の証拠を掴んでいたのです」
「馬元義か。宦官どもが証拠を掴んでいながら何故、張譲を弾劾しなかったのかね?」
「張譲と馬元義の関係を告発すれば、太平道は潰されてしまいます。つまり、乱世は来ない」
「穏やかではないな。君が望むのは国家の安寧ではなかったのでは?」
「もちろんです。しかし、偉大な大樹も朽ちてしまえば、実も花もつきません。根本から切り落とし、新たな苗を植え育てるべきではないでしょうか。それが民を安んじ懇ろに国を治る事になると思います」
「新たな苗か。そうかもしれん。だが、かつて光武帝が成し遂げたように、再びこの漢室を再興させねばならぬ」
「それは、もちろんです」
漢室の再興。その言葉が曹操の心に引っかかっていた。もちろんです、と答えたが彼の本意でない事は確かだった。




