第四十二話 刺客
十年近く前、二十歳を迎えたばかりの曹操は、漢の帝都、雒陽に上京した。
大宦官の祖父のコネで要職に就いていた父の口利きもあって、孝廉という官吏登用制度により、若くして中央政界に足を踏み入れる事となった。
最初は郎官と呼ばれる下級官吏となり、役人としての下積みを重ねてから、将来的には然るべき官職に就くのである。
故郷から都に出て来たばかりの左右もわからぬ青年であった曹操は、まず父である曹嵩の言伝を受け、張譲の邸宅に出向く事となった。
「張中常殿には私も世話になっている。すでにお前の事は紹介してあるから、彼の邸宅に曹嵩の息子だと挨拶して来い」
当然、若き曹操も張譲の悪評は風の噂で耳にしていたのだが、祖父の曹騰に目を掛けられていた張譲は、曹嵩を何かと面倒みてやっていたらしい。
(――あの奸物に挨拶しなければらんとは――)
嫌悪感を抱きながらも、曹操は渋々と彼の豪華な邸宅の門を叩いた。
しかし、呼べど、叩けど、一行に返事がない。昼間から誰もいないとは不可思議である。
少々途方にくれた曹操が、仕方なく門の扉を押すと、少し開いたではないか。もう少し門を押し開き、身体を半身ほど邸宅内に押し入れてみた。
すると遠くから微かに響いてくる金属音と騒然とする人々の声が、すぐに曹操の耳に飛び込んで来た。
(――これはただ事ではない―― )
曹操は小走りになって壁伝いに音のする方へ向かっていった。すぐに剣を鞘から抜けるように、剣の束をカチカチ動かして確認する。
広い邸宅の上に建造物が幾つかあるので、すぐには事件の発生現場を特定できなかった。
邸宅の中央にある木々が生い茂る庭園の木陰で、しゃがみ込んで震えている下女を発見し、何事かを問うてみた。
「おい、お前、ここで何をしている? 何があったんだ?」
「は、はい。中常侍様(張譲)がこのお庭を散歩していたら、剣を持った見知らぬ男がいきなり屋敷から飛び出してきて。中常様に斬り付けたんです」
「なに? それで、どうなった?」
「ちょうど一緒にいたお付きの方が中常侍様を庇って背中を斬られました。それからは護衛の兵士さんがたくさんやってきて、みんな揉みくちゃになって……」
「中常侍とその賊は、どこへ行ったんだ?」
「中常侍様は兵士さん達に匿われてあちらの屋敷の中に入りました。他の兵士さん達は、剣を持った男を追ってあっちの屋敷へ……」
「よし、お前は早く邸宅の外に出て、助けの衛兵を呼ぶんだ!」
「は、はい!」
下女を邸宅の外へ出るように促した後、曹操は腰の剣を鞘から抜いて、賊が入っていったという屋敷内に向かう。
すると、その屋敷の入り口には、綺羅びやかな服を纏った男が宝剣を持って立っていた。
体格は頗る良いが、美しい長髪を結わずに振り乱し、端整な顔面には髭も生えていない。宦官のようにも見える。
曹操はこの男こそ張譲に違いない……と思い、鞘から抜いた剣を戻して一礼しつつ挨拶した。
「中常時様ですね。私、嘗ての大長秋の孫にして、司隷校尉の曹嵩の息子、曹操と申す者です。邸宅内が騒然としていたので、勝手に邸宅内に入ってしまい申し訳あり、ん?」
曹操がすべて言い終わる前に、張譲かと思われたその男は、血が滴り落ちてくる剣先を、曹操の鼻先に当てた。
「なっ? うわっ」
仰天した曹操は顔を仰け反らせ、剣を手で払いどけて後退りした。
「小僧、こんな所をウロウロしていると死ぬぞ」
よく辺りを見回してみると、その男の周りには衛兵達の斬殺死体が十数体ほど転がっている。
「貴様が、賊だったのか!」
「何を言うかっ。賊は張譲の方だ。天下万民の安寧を偸盗する大盗賊よ!」
「ならば、刺客かっ」
その時、中空を鋭く裂くような風切音が何度も耳に入ってきた。曹操はとっさにその場に伏せて身を躱す。
数回の風切り音の後に、連続的に鳴り響く小気味良い金属音。刺客は飛んできた数発の矢を、剣ですべて叩き落としていた。
「何顒! ワシの屋敷で好き勝手しおってぇ、許さん!」
何顒――知っている名だ。確か、党人(党錮の禁で弾圧された要人)として指名手配されている清流派の筆頭人物。
清流派の筆頭が刺客として、大物宦官の屋敷に討ち入りするとは、なんたることか。
「撃て、撃てっ、撃てぇ!」
中央の庭園を挟んだ向かい側の屋敷から甲高い声で叫ぶ張譲。さらに大勢の衛兵が駆けつけて、弓矢を構え始めている。
恐らく、先ほど外へ逃してやった下女が、外の衛兵たちを呼び込んだのだろう。
その刺客……何顒は、目にも留まらぬ素早さで、中央の庭園に飛び移り、木々の間を走り抜けた。
放たれた多くの弓矢は虚しくも、木々に突き刺さるだけで、何顒を捉えた弓は一本もない。
見る見る間に何顒の残像は、張譲のいる屋敷に近づいていく。庭園から飛び出ていよいよ張譲に迫るかというその瞬間、何cは一瞬だけ姿を消した。
「消えた……」
張譲も、彼を取り巻く衛兵達もあっけに取られている。が、すぐに何顒の居場所が明らかになった。
そう、上空から張譲をめがけて、飛び降りてきていたのだ。木を猫のように駆け上り、剣を手に空から舞い降りてきたのである。
この刹那、張譲の庭園のすべてが止まっているかの様に、時間が徐ろに流れていく。
衛兵達は口をあんぐりと開けたまま身動きできず、張譲は頭を抱えるようにしゃがみ込もうとしている。
凄まじい金属音が辺りに響き渡り、何?が弾き飛ばされているのが見えた。
ここでゆっくり流れていた時間が戻り、何が起きたのか、皆が冷静になって見直した。
そこには折れた剣を両手に持ち、両肩を上下に激しく揺らしながら、荒息を吐いている青年の曹操がいる。何顒もすぐに立ち上がり宝剣を構えた。
張譲も衛兵達もまだ状況がよく飲み込めていない。
「賊がもう一人いるぞぉ」
誰かがそう叫ぶと、曹操に皆の視線が集中した。
「ちが、違うっ」
戟を持った衛兵たちが、続々と曹操の周りを囲み始めた。
「ば、ばかっ、俺じゃないっ、あっちだ!」
何顒のいる方向を指差した……が! すでに姿を消している。
「一斉にかかれ!」
衛兵の一人がそう叫ぶと、戟による曹操への一斉攻撃が始まった。
曹操は折れてしまった剣を捨てて、第一手の攻撃を靭やかに手で絡め取り、戟を一つ奪い取った。
「中常侍殿っ、私は賊ではありません!」
そう言いながら、奪い取った戟を大きく振り回し、衛兵の囲みの幅を開かせる。
「大長秋、曹騰の孫です、曹孟徳でございます!」
その言葉に少し反応を見せる張譲。
「大長秋だと。曹、孟徳……」
衛兵の攻撃は一時的に収まったが、まだ囲みは解けておらず、すぐに迎撃態勢が敷かれた。
「知らんな。やれっ」
張譲の合図でまたも衛兵による一斉攻撃が始まった。すると何靭にも劣らぬ俊敏さを見せて、曹操は戟の嵐を掻い潜ぐっていく。
守勢から自分の体勢を整えると、持っている戟を再び大きく振り回し、曹操の怒涛のような反撃が始まった。
数人の衛兵を弾き飛ばして、中央の庭園側に突破口を切り開こうとする。曹操の壮絶な激闘の前に、衛兵たちは青ざめて退路を開けてしまう。
僅かな隙間をこじ開ける様に囲みを突破し、すかさず庭園に飛び込むと、木々の間を猿か猫の如く飛び跳ねていった。
「逃がすなっ、追え!」
衛兵の一人が叫んび、すぐに張譲の制止が入った。
「待てぇ、先に何顒を探すのだっ。先ほどの小僧は追わなくていいっ」
衛兵たちからすれば、何顒と曹操の区別はついていない。ただの侵入者、または賊でしかないのだ。
張譲の余計な横槍に、衛兵たちはどう動くべきか躊躇してしまい、結果的に何?と曹操の二人を逃がす事になってしまった。
いや、それ以前の問題として、この二人を捕らえれる衛兵は一人もいなかっただろう。




