第四十一話 何顒
「久方ぶりだな、京師は。相変わらず都の空は濁っている……」
雒陽の正面玄関である平城門の前で、彼が言うように薄く黒ずんた暗い雲が、稲光を発しながら覆っている。その暗雲の直下には天を仰ぎ見ている曹操がいた。
曹操はゆっくり視線を下ろして門を見ると、大きな白い文字で落書きされた跡がうっすらと残っている。ここ最近、このような落書きが至る所に書き殴られていた。
蒼天已死(青空の天はすでに死んでいる…) 黄天當立(黄色の天が今まさに立とうとしている) 歲在甲子(時期は甲子の年にあり) 天下大吉(天下は大いなる吉日を迎えるであろう)
「この門にまでこんな落書きが。今年は甲子の年。何かが起こる……」
今回は、夏侯惇を連れて来なかった。曹操の使命を果たす為には、一人で上洛(上京)した方が都合が良かったからだ。
雒陽に入った曹操はまず、橋玄に挨拶したかったが、病状は更に悪化して故郷の予州梁国へと帰っているという。恐らくこの京師に戻って来ることはないだろう。
曹操はかつて橋玄が暮らした邸宅の門前で一礼し、思いを残しつつも振り返える事はせず、静かに立ち去っていった。
次に向かったのは袁紹が暮らす襤褸屋敷だ。一応、雒陽の城塞の中ではあったが、比較的に貧しい者たちが暮らす区域に住んでいた。
袁紹は名門の出自で、出世街道を難なく渡り歩ける立場であるにも係わらず、両親の喪に六年間も服し、朝廷への出仕を頑なに、しかし丁重に断り続けている。
「本初さん、おられますか。お久しぶりです。オレも都に帰って来ました」
曹操はボロ屋敷の玄関を開けて気軽に声をかけたが、がらんどうとして暗い室内から返事が帰ってくる様子はない。
「いないか……」
暮らしは質素でも面倒見がよく世話好きの袁紹は、いつも何かと忙しく雒陽中を駆け回っている。
「曹操。久しぶりだな……」
曹操の背後から聞きなれない声がする。明らかに袁紹の声とは違う。しかも字でなく、無礼にも自分の姓名を呼び捨てにする。
「誰だ!!」
曹操は言葉を発すると同時に剣を抜き、振り向き様に背後に斬りつけた。その一連の動きは目にも留まらぬ速さだ。
キーンという金属音が中空に響き渡り、背後に立っている男が曹操の剣を、己の剣で見事に受け止めている。
「見事だっ。後背殺剣!」
剣の持ち手を右手でしっかりと握り締め、顔の前にある剣先の付近を左手の平で押さえた。曹操の剣圧を見事に防ぎきっている。
防いでいなければ首と胴体が切り離されていたであろう。
「素晴らしき撃剣。背後を見ず殺気で相手の動きを読み、振り向き様に急所を仕留める。達人の域だな」
撃剣とは漢代にあった公式の剣術。年少期に学ぶ者が多かったが、曹操ほど撃剣を極め得る者は甚だ少なかった。
「貴様、何者だっ。本初さんでないことは殺気で判っていたぞ」
「だからと言って、むやみに剣を振るっていいのか?」
「問答無用!」
そう叫ぶと、曹操はすかさずその男に剣を何度も打ち込んだ。
男はボロ着を纏い、髪は伸び放題のまま結うこともせず、整っていない無精髭は清潔感のかけらもない。
だがその男の動きは、曹操に勝るとも劣らない華麗な剣捌きをみせた。撃剣の達人である曹操を唸らせる剣の使い手の顔は、何故か見覚えがあった。
激しくぶつかり合う剣の攻防に空気まで殺気立つが、二人の戦いはまるで息のあった剣舞を舞っているかの如くだ。
「そこまでっ」
閃光を放つ剣の舞踏に、見計らったかの様に合い間を縫って、綺羅びやかな剣を振り乱しながら踊り込んで来た、もう一人の男が剣を突き上げた。
頭上に突き上げた剣先には、まるで示し合わせたかの如く三本の剣が絡みつき、心地良く折り重なった金属音が鳴り響いた後、三人の間に出来た空隙が静止する。
「本初さん!」
曹操が最初に剣を下げ、三歩下がって膝をつく。最後に踊り込んできた剣士は、曹操が探していた袁紹であった。
袁紹ともう一人の男も剣を鞘に収めた。やはり、この正体不明の男はどこかで会った事がある。
「失礼致した、孟徳殿。見事な撃剣。私の名は、何伯求。その様子だと憶えていないようだな」
何伯求。名を顒という。字は伯求。彼の名を知らぬ者は官界と縁のない平民ぐらいだろう。
党錮の禁を受けた清流派の代表格、逃亡中の身で札付きのお尋ね者である。それ故、彼に畏敬の念を抱かぬ士大夫はいない。宦官を除いては。
それほど絶大な尊敬を集めた義人であり、友人の父の仇を討った逸話を持ち、武侠の嗜みも一際目立つ文武両道の傑物であった。
「貴公が、かの高名な何伯求殿ですか。こちらこそ大変失礼致しました。背後に殺気を感じると勝手に体が動いてしまうもので」
袁紹は少し含み笑いしながら、曹操と何顒の撃剣の勝負を称えた。
「さっきの後背殺剣は、並の人間なら急所を突かれて即死していた所だったな。彼でなければ防げなかった」
何顒は一礼し、曹操も膝を地についたままで一礼する。そこで袁紹は何顒に問いかける。
「それにしても、君は……この孟徳を、すでにご存知なので?」
一礼を済ませた何顒に問いかけている袁紹を遮るように、曹操が先手を打って喋り出し始めた。
「私は、何伯求殿の御尊名は……かねてより伺っておりましたが、こうして面前でお会いするのは、初めての事でございます」
「いいや、私と君は、すでに出会っているよ」
曹操は何顒の顔に見覚えがあったが、いつどこで会ったのか思い出せなかった。対する何顒は明確に曹操の事を覚えていた。
「君を京師に呼び戻したあの俗物、張譲……の邸宅でな」
急に顔を上げて睨むように何顒の顔を見つめる曹操。何故かわからぬが、この話題には触れたくなかった、という思いがあった。
「あ、あの時?」
思わず声を漏らしてしまった曹操の脳裏に、あの時のあの光景が、鮮明な映像で蘇ってきた。
あの日、張譲の邸宅で起こった事実。時は十年ほど前に遡る……




