第四十〇話 曹節
その声の主は張譲と同じ宦官で中常侍の呂強であった。正義感が強く自分の意志を曲げない、という張譲たちとは正反対の宦官である。
「王中常のように無残な死に方は嫌だと言うので、薬をお渡ししている所ですよ」
「なんの薬ですかっ。|紀明《段熲》どの、それを飲んではいけません!」
呂強は張譲を信用してはいない。段熲にもう一度確かめたが、段熲は首を縦に振って頷くだけである。
「止めるな。張中常はワシの望みをきいてくれた。邪魔せんでくれ呂中常」
「確かに、紀明どのは王甫と組んで不正な蓄財に励んだ。極刑は免れない。しかし、かつて得た名声とご家族の処遇はどうされるというのですか?」
「ワシにはもう、どうしようもない事じゃ。悪いが、先に逝かせてもらう」
そういうと段熲は瓶の蓋を開けてグイと毒を一飲みしてしまった。その後すぐに横に臥して目を閉じた。
「紀明どの!」
呂強は段熲の字を叫んだ。張譲は書状を袖に然りげなく隠して、横たわる段熲の遺体に寄り添った。
そして段熲が息を引き取ったのを確認すると、呂強の方に振り返って冷たく言った。
「で、呂中常どのはここへ何しに来られたのですか?」
「私も鴆毒を持って来たのです。紀明どのを楽に逝かせてやりたいと思ったから。彼は国家の為に心骨粉砕してまで戦った男ですから、せめて安らかに逝かせてあげたいと思ったのです。その薬が本物の毒か信じられなかった」
呂強は心から段熲の為を思って鴆毒を持ってきた。張譲のように下心や策謀があったのではない。
「私も貴方と同じ理由でここへ来たのです。それでは、私の仕事は終わったので……」
張譲の心の無い言葉の口調に、呂強は釈然としない気持ちを抱いた。
「仕事? 眼の前でかつての英雄が毒を煽って死んだのですよ。あなたの冷徹な態度をみていると、とても慈悲で彼に鴆毒を持ってきたとは到底思えませぬが。どうせ、人には言えない目的があったのでしょう?」
「失礼な。私の何を知っているというのですか? これ以上変な言いがかりをつけるなら、こちらにも考えがある」
呂強の質問など意に返さず威嚇して凄むと、張譲は後ろに振り返って牢から離れた。
「あなたの脅しには屈しませんよ。ただ、今回ばかりは私からも礼を言いたい。あなたの本心がどうであれ」
返す言葉はお互い愛嬌のかけらもないが、傍目からは言い争ってるようには見えないくらい静かだった。
そして張譲はそのまま黄門北寺獄を後にした。
死んだ段熲の親族は連座して辺境の地に遷されたが、後に呂強が上疏して段熲の西涼で為した功績を訴えると、皇帝は詔して段熲の故郷に妻子を還したという。
段熲と違って王甫の死後は悲惨なもので、一族郎党の遺体を、雒陽上北壁にある夏門に吊るされた。
その場で王甫の無残な死骸を見て哀れんでいた曹節は、偶然にも陽球に出くわしてしまった。
「曹節っ、この奸賊め! 貴様もすぐに王甫の後を追わせてやるぞ!」
と大衆の面前で、陽球に思い切り罵られた。後宮に逃げ帰った曹節は、恐怖と怒りから即座に反撃に転ずる。
「許さん、許さん! 許さんぞぉ、陽球!」
曹節はその日のうちに皇帝へ直訴した。陽球を暴虐な独裁者であるとし、あること無いこと讒言を吹き込んだのだ。司隷校尉の職を解かせた上で前職の衛尉へと降格させた。
陽球は無罪を訴える為に前殿へと馳せ参じ、皇帝の前で平伏して、何度も頭を地に打ち付けながら訴えた。
「せめて、あと一月の猶予を下さいっ。必ず悪の根源である曹節らの尻尾を捕まえて、罪を吐き出させます。曹節ら他の宦官たちも、王甫と同じく管財を不正に横領しているのです!」
皇帝は陽球の必死の懇願を無視した。曹節の讒言をいとも簡単に信じてしまったのだ。また、陽球の残忍な拷問の仕方や、王甫らの遺体を城門に晒したのも気に入らなかった。
さらに、その場にいた宦官からも「陛下の勅令に従えないのか!」と叱責された。陽球は泣く泣く降格せざるを得なくなった。
その後、張譲が切り札と考えていた程璜を、先に曹節が切り札に使ってしまったのだ。
程璜を賄賂と脅し上げ、二人の妻である娘から「陳球と陽球は、司徒の劉郃と共に陛下の廃立を企んでいる」という風説を流した。逆に陳球と陽球らを弾劾したのだ。
十月十四日、劉郃、陳球、陽球の三人は曹節の讒言により雒陽の獄に下され、そのまま獄中で死んだ。
陽球らを葬り去った事で曹節の宮廷での権勢は一層揺るぎないものとなってしまう。張譲の奸知を持ってしても曹節を倒すには至らなかった。
しかし、曹節は翌々年に老齢で逝去する。張譲の狙い通りとはいかなかったが、図らずしも張譲が権勢を奮う時代が自然と舞い込んだ。




