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三国志創生伝 ~砂塵の彼方に~  作者: 菊屋新之助
第五章  刺客信条
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第三十九話  段熲

 陽球(ようきゅう)司隷校尉(しれいこうい)の職に就いた光和二年(179年)の4月1日に日食が起こった。当時の儒教思想では、日食は天子に対する天の(とが)めである、として忌み嫌われたという。


 そこで宰相(さいしょう)が皇帝の代わりに責任を取って職を辞任するのが通例となっていた。通例に習って段熲(だんけい)太尉(たいい)の職を自ら辞した。


 時期を同じくして、王甫(おうほ)は自分の邸宅にて少し長い休暇を取っていた。この後に待ち受ける運命を知る由もない。


 ようやく訪れた好機を逃すことなく陽球は素早く動き出す。司隷校尉(しれいこうい)就任の挨拶と称して宮城へ向かい、王甫一派の弾劾排斥を上奏した。


 京兆尹(けいちょういん)(長安地区の長官)である楊彪(ようひょう)が、以前から京兆(長安一帯)で王甫(おうほ)が近親者や門弟を使って、管財七千余万を横領していたと、陽球に告発していたのである。


 上奏を聞いた皇帝は激怒し、その日の内に王甫一派は逮捕され身柄を拘束、激しい拷問にさらされ全てを自白した。


 陽球が直々に鞭や棒で殴打を繰り返し、王甫父子は苦しみ藻掻きながら死んでいったという。段熲は一人獄中で自らの行いを悔い、死を待つばかりであった。


 段熲だけは黄門北寺(こうもんほくじ)の監獄に送られていた。黄門北寺(こうもんほくじ)獄は宦官が巣食う機関である少府(しょうふ)黄門(こうもん)署にある。党錮(とうこ)の禁で獄に繋がれた者たちを収容した、宦官御用達の特別な監獄だ。


段太尉(段熲)、いや、すでに辞職されておられましたな、ククク。『涼州(りょうしゅう)三明(さんめい)』と(うた)われた貴方も、今はただの罪人。お(いたわ)しや」


 獄に繋がれた段熲の目の前に現れたのは、張譲その人であった。


 涼州三明とは、かつて西域の涼州で活躍した三人の武人、皇甫規(こうほき)威明(いめい))、張奐(ちょうかん)然明(ぜんめい))、段熲(だんけい)紀明(きめい))の事を指し、三人とも字に『明』の文字が入っていた為に、畏敬(いけい)の念を持って渾名された。


「アンタ、張中常(張譲)か。こんな所まで何しに来よったんじゃ。アンタも一緒に牢に入りたいんか?」


 かつては西羌(せいきょう)に恐れられた猛将も、今はただ、痩せた白髪の老人にしか見えない。


「牢に入る理由がありませぬ。王中常(王甫)と違って悪事に手を染めた事などありませんから」


 悪事に手を染めた事がないなどと、よくもいけしゃあしゃあと……段熲は小さく笑って言った。


「ふん。まさか、冗談を言いに此処(ここ)まで来たんじゃあるまい。何が目的じゃ?」


 張譲は牢の回りにいる番兵を人払いさせた。張譲に逆らえる者は一人もいない。すぐさま番兵は段熲がいる牢から消え去り、牢の格子(こうし)を挟んで張譲と段熲の二人きりとなった。


「私には貴方をここから出す力がある。王中常(王甫)ら親子などは拷問の末に死んだ。そんな死に方をしたいですか? だから、ここから出して差し上げましょう。ただし、お願いがあります」


「お願い? 獄に繋がれたワシに何が出来る。それにワシはここで潔く死ぬつもりじゃ。今まで漢室の為に十分に戦ってきたし、それに見合う十分な富も得た。今さら生き恥を晒してまで生き延びようとは思わん。だが、王甫のように拷問されて死ぬのは御免じゃ」


「それなら、ここに鴆毒(ちんどく)があります。これなら楽に逝く事ができます。この鴆毒を差し上げますので、私の願いを聞いて頂けますか?」


 そう言うと張譲は懐から小さな(びん)を取り出して、段熲の眼の前にある牢の格子へと差し出した。


 鴆毒(ちんどく)とは、古代に絶滅したという猛毒を持つ鳥『(ちん)』の羽毛を酒に浸した毒薬だという。


 唐時代から()という鳥の存在は否定的に見られている為、架空の鳥類だとする説が根強い。だが現在では、太平洋南部の島に猛毒の羽を持つ鳥のが存在が確認されており、()が実在していた可能性も捨て切れない。


「これで死ねるんか? まったく、用意が良いのぉ。それで、アンタの願いって何じゃ」


「本来なら、貴公を、私の幕下にお招きしたかったのですが、お年も召されてますし、死を覚悟されているのでは仕方ない。私の願いとは貴公のような猛々しい将が欲しいのです。軍を自在に動かし、敵を殲滅し得る、最強の将が欲しいのです。涼州三明と謳われた皇甫校尉(皇甫規)張太常(張奐)はすでに故人ですが、彼らは融通(ゆうづう)がきかなかった。貴公のように世俗に(まみ)れた輩が良いですね。ククク」


「ふぇへへ。確かに、ワシは所詮、俗物よ」


「そうですね。貴公の後継者に相応しいと思う将、信頼出来て、しかも戦に強い武官を……誰か紹介して頂けませんかね。もしそんな将がいるなら、私の手足と成る部下として手元に置いておきたいのです」


「けっ、そんな都合の良い奴がいる訳なかろうが」


「そうですか。そうですよね。では、貴公も王甫のように藻掻(もが)き苦しんでからお逝きなさい。それでは……」


「おお、そういえば、一人だけアンタに向いてる面白い奴がいたぞ。(りょう)州の董卓(とうたく)って奴だ。アンタも聞いた事がある名だろう? 字は仲穎(ちゅうえい)だ。ワシが(へい)刺史(しし)だった頃に、董卓を公府に推薦してやったんじゃ。その後、張奐(ちょうかん)の下でも働き順調に昇進して、今ではワシと同じく并州の刺史を拝命しておる」


「董卓……ですか。(きょう)族との戦いでは百回以上の戦歴を持ち、彼自身も豪腕で騎馬を乗りこなす豪傑だと聞いております。私が幼い頃に、彼の父は潁川(えいせん)県尉(けんい)を務めていた。潁川は私の故郷なのです」


「ほう、同郷か。アイツは馬を駆りながら左右に矢を打つのが得意でな。西戎(せいかい)(西の蛮族。羌族の事を指す)の奴らを手懐けとった。ワシと同じで野心が旺盛じゃった。歯向かう者には容赦せんが、従属する者には愛情すら見せた。アイツは危険な男じゃが、使いこなせばモノになる」


「それでは、その董卓を貰い受けましょう。私と董卓が密約を結ぶよう貴公には血判状を書いて頂きたい」


 張譲は布と筆と小刀を格子の下に置き、段熲に書状を認めるよう説得した。


「それを書けば、毒をくれるんだな。だが、こんな書状を董卓に渡したくらいで上手く事が運ぶとは思えんがの」


「後は私にお任せ下さい。切っ掛けさえあれば、なんとでもなる。その力が私にはあるんです」


 段熲はさらさらと書状を書き記した。その字句は鮮やかで文も上手かった。官界に入境する為に学問を志した男だ。ただの武辺者ではない。最後に小刀で自分の指を切り、自分の名を自身の血で書き記した。


「これでよかろう。さぁ、毒を渡せ。もう未練はない」


「待ちなさいっ、張中常。何をしておられるのです」


 張譲と段熲の二人しかいないはずの牢獄に、もう一人の力強い声が牢内に響いてきた。

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