第三十八話 諸刃の剣
張譲は少しのあいだ黙ると、神妙な顔をして趙忠に言った。
「で、その曹操なのだが、覚えてるかい。あの蹇(碩)黄門の叔父を撲殺した事件があっただろ。あの時に曹操を庇ってやったのが私なのだよ。それ以来、どうも蹇黄門とはしっくり来なくてね」
「それで私に相談したというワケか。宦官のくせに筋骨隆々の大男だなんて、前々から気に入らん奴だとは思っていたがね」
「これは私の勘なのだが、蹇碩は我々の秘事を薄々ながら感づいている節がある」
そう、趙忠もまた同じく太平道を密かに信奉している隠れ信者の一人である。
「何い。それが本当なら大事だぞ、蹇碩のヤツ。それにしても、曹操とかいうガキは使える男なのか?」
「ああ。頭は切れるし、胆力もある。昔、私の邸宅で護衛兵を数人ほど斬り倒した事もあるのだ」
「何だって? あの時の賊は、曹操だったってのか?」
「私が招き入れたに等しい。まぁ、そんな事より、曹長秋が築いた地位と財力は相当な価値がある。実際、私たちも彼には色々と世話になっただろう。養子の曹嵩は大した能もない男だが、息子の曹操は孝廉で都に登用されていた頃から目をつけていた」
「今いち合点のいかない話だ、どうやら私にも何か隠しているな」
張譲は長年の友である趙忠にも多くの隠し事があるようだ。趙忠もその事を気にしてはいないらしい。張譲の言う通りにしていれば大体の物事は上手くいくからだ。
「詳しい事はまたいつか話すよ。それより、曹操を呼び戻す手筈を整えてくれるかね」
「ふむ。まぁ、いいだろう。そうだな、曹操を都に呼び戻すなら、彼の父の曹嵩に頼めばいいじゃないか。彼は大鴻臚なんだし、息子を官職に就けるなど造作もないだろう」
大鴻臚とは諸侯や帰属した異民族を管轄する最高官位である。今で言う外務長官にあたる要職である。
「いや、それはマズイな。私の手元に置きたいのだ。後宮に近い官職なら都合が良いのだが」
「む。では、例えばの話なんだが、昨今の太学では古学が流行っていると聞く」
「ほぉ。私は、儒学などにさして興味はないがね。で、それが何かあるのか?」
古学とは儒教経書の古文学派の事で、当時は官学の主流であった今文学派を凌いで、広く在野にまで普及していた経学(儒教に関する研究、学問)である。
「古学に明るい、という理由で議郎の官に就ける、というのはどうだい」
「なるほど。曹操は学識もそれなりにあるし、なかなか良い案だね。さすがは趙中常。その線で行こうじゃないか」
議郎とは、 光禄勲という宮廷内の治安や儀礼を統括する行政官の属官(所属する官吏)の一つで、皇帝の顧問や応対を任されていた。
また、皇帝に直接的に建議できる要職でもある。後宮内に給仕する宦官とも近接した官職なのだ。
こうして曹操は、光和二年(一九七年)の年の初月に、議郎として雒陽に戻り、 再び中央政界へと復帰した。
張譲にはもう一つやらなければならない仕事があった。
(――目の上のタンコブである上司の曹節と王甫を、権力の座から引き摺り下ろさねば。彼奴らを排除すれば、すべてを自分の思いのままに動かせる――)
そこで目を付けたのが、衛尉(宮殿警備隊長)の陽球という男だった。
この陽球という男は、曹節や王甫、そして張譲を含む宦官たちに毒づいては獄中に送ってやると、周りを憚ることなく言い散らしている。
もちろん、張譲にとっても陽球の存在は脅威だが、それを逆手にとって曹節や王甫を貶しれようと目論んだ。
彼を司隷校尉(警視総監)の職に就けて、まずは官界で最大の派閥である王甫一派に目をつけさせようとした。
王甫の一派でもっとも武力を持つのが、かつて護羌校尉(西方異民族討伐の長)で猛将として名を馳せた、段熲だ。
段熲は若い頃、涼州で反乱を繰り返していた西羌(羌族という北方異民族)をとことん追い回し殲滅したが、老いて政界に入ってからは宦官の王甫と結託して権力を握った。
そして今では段熲が、曹操の師である橋玄に代わって太尉(軍事最高長官)の位に就いている。こうして王甫は段熲と共に盤石の体勢を敷き、その権勢を利用して莫大な富を得た。
莫大な富の出処は、苛烈な納税を課し、民から搾り取って得たものであるのは言うまでもない。
対する陽球は鴻都門学という霊帝が自ら望んで新設した文学学校を批判した事で知られる。筋金入りの堅物で宦官たちの暴利政治をたびたび批判している事でも有名だった。
張譲が彼を使うのは諸刃の剣だが、飛ぶ鳥を落とす勢いの王甫と曹節を葬るのは、彼しかいないと踏んだ。
諸刃の剣とはいえ、切り札もある。陽球の妻は、程璜という中常侍(宦官の位)の娘だ。程璜はかつては妻子を持っていたが、自ら望んで宦官となり宮中に仕えていた。
さらに、陽球と同じく宦官の排斥を求めている陳球という男の妻も程璜の双子の娘を娶っていた。陽球、陳球、程璜の三人はそれだけ思いも繋がりも強かったのだ。
陳球は永楽少府という職に就いおり、司徒(田土・財貨・教育などを司る最高官)の劉郃と共に宦官の排斥を強く望んでいる。
実際に陽球を推して司隷校尉に任に就かせたのは陳球なのだが、実はこれも張譲が秘密裏に仕組んだ筋書きであった。
いざとなれば後輩の程璜を脅して、陳球と陽球の二人…いわゆる「二球」をまとめて陥れる事もできる。張譲にはそれを実行する力がある。




