第三十七話 上書
その頃……雒陽では、張譲によって秘密裏に登用された新たな宮廷官人、馬元義なる人物がやってきた。彼は荊州、揚州において太平道の信徒を数万人集めた事で名をあげた。
当時は異民族の侵入以外にも、各地の山賊による小規模な反乱が相次ぎ、宗教集団も危険視されていた状況の中、太平道は目立った騒ぎを起こさず、表向き平和裏に宗教活動を行っていたのである。
馬元義は太平道の道師として堂々と宮中を闊歩している。太平道は宮中においてもまったく危険視されておらず、寧ろ民間宗教として半ば公認されてすらいる。
張譲は同じ中常侍で忠実な部下でもある封諝と徐奉を、馬元義の世話役として側に置かせた。後宮内では宦官らが好き勝手に振る舞い、皇帝の許可なく道士を宮廷に招き入れている。
肝心の皇帝といえば、馬元義に対して特に興味も関心も無く、自分の蓄財や酒と女、宮廷内で商人の真似をする遊び事などに夢中となっていた。
書が好きで教養もあったが、政などと云うものは、宦官どもに任せておけば上手く回るだろう……と、その程度しか気に留めていなかったのだ。
というよりは、宦官たちによって巧みにそう仕向けられていた、と言った方が正しいかもしれない。
この時期に、劉備や公孫瓚の師匠である盧植は尚書という職に就いており、皇帝陛下に対して上書を行った。
党人や宋皇后一族の無罪を説き、太守(郡長官)や刺史(州長官)などの重要な官職が、ほんの一ヶ月で異動になる現状を止めて、最低三年は就かせるべきだと主張した。
コネや賄賂で登用せず、しっかりと人材を見極めるべきであり、国家の大事を視野に入れて政策を投じるべし、というような内容である。
盧植が上書する数ヶ月前にも、蔡邕という経学の大家(博士)が皇帝に上書したが、返って宦官たちの反撃にあい、既の所で処刑されそうになるという憂き目を見たばかりである。
それでも廬植は果敢に上書を試みたのだ。皇帝の手にその上書は届いたが、そこに水を差す人物がいた。
「陛下。いちいちそのような書に目を通していたのでは、御身が持ちませぬ。そのような政務は、どうか私奴にお任せいただければと」
「待て、張中常。高名な廬植の上書だぞ。朕にはそれに目を通す義務がある」
思ってもみない皇帝の返事に、張譲は言葉を失った。だが、まずはそっと作った笑みを含んで言を返した。
「もちろん、陛下の仰せのままに致します。ただ、私奴が心配なのは、陛下の御手を煩わせる事です」
「上書に目を通すだけだ。身体が持たぬとか手を煩わすとか大袈裟すぎるぞ」
皇帝の御年二十二歳。十四歳で皇帝に擁立されてからはや十年。幼年であった皇帝は、宦官の傀儡を許す格好の材料だったが、この十年の間に成長した。
皇帝は廬植の上書に目を通したあと、張譲に言った。
「廬植の上書はどれももっともな話だ。なぜ、これを認めようとしないのだ」
「陛下の公正明大なご判断にはいつも敬服します。しかし彼の上書は『売官』を否定しておられるのですぞ。そのような事は太后がお許しになりますまい」
張譲の言葉に皇帝は口ごもった。
「それは……。それでは、そちの好きなようにしろ」
自分の母親が太后の身分を利用して始めた売官制度で、巨万の富を築いた。皇帝といえども宦官の傀儡であるのは本人も承知している。そういう事が理解できる年齢になったのだ。
権力は宦官に握られているから、金を稼ぐしかなかった。傀儡皇帝が権力を得るには商売人になるしかなかったのだ。
「仰せのままに……」
相棒の趙忠とともに、幼年皇帝の養育係だった張譲は皇帝から「我が父」とまで呼ばれた宦官なのだ。
とはいえ、彼の上司である王甫と曹節が侯覧に代わって後宮内での権力者となって君臨している。上司であった侯覧という宦官は、張譲自身の暗躍により葬り去ったばかりだ。
張譲は若い頃からの同僚で相棒でもある趙忠と共に、王甫、曹節の後継者といった立ち位置に甘んじている。
相棒の趙忠は今の立場に酔いしれ横臥していたが、張譲は未だ更なる野望を胸に秘めていた。老いぼれの王甫、曹節が牛耳っている政界のみならず、皇帝をも超える存在になりたい、と。
その為に必要な存在、それが大賢良師・張角であり、張角の盟友である馬元義であった。
張譲が馬元義と接触せずに、自分の腹心である封諝と徐奉を通して間接的にやり取りしたのには、この計画が露顕した場合に備える為に、用意周到に事を進める必要があったからだ。
彼が進める計画とは――国家転覆――これは宗教団体による中国史上始まって以来の壮大な反乱計画の序章なのである。
張譲はこの機会に曹操を都に呼び戻したいと思い始めた。彼も張譲の動かす駒の一つである。しかも、蹇碩の叔父を撲殺しても顔色一つ変えない男だ。
だがあれ以来、張譲と蹇碩とはどうも馬が合わない。蹇碩の機嫌を取る為に、曹操を頓丘の県令に栄転させたまでは良かったが、逆に曹操を都から遠ざけて安全圏に置く為なのだと、蹇碩に見透かされていた。
蹇碩は宦官でありながら、長身で頑健な体躯の持ち主で、まるで一介の将軍の如き人物である。宦官の見本の様な張譲とは、元々相容れる仲ではない。
気に入らない相手や政敵を屠る為なら、讒言による誅殺や政略的暗殺をも辞さない張譲だが、蹇碩もまた同じく帝の寵愛を受けている同僚の宦官である。
そう簡単には手を下せないばかりか、下手な事をすると自分の身さえ危くしかねない。
蹇碩の叔父を殺傷した曹操を呼び戻すのは諸刃の剣ではあるが、ともすれば自分の盾になる可能性も高い。都合の良い事に曹操は今、宋皇后の遠縁であったが為に連座で罪を被り、職を追われ故郷に帰っている。
「趙(忠)常侍。折り入って相談があるのだが、聞いてくれるかね?」
宮廷の外を歩いていた趙忠は、相棒の張譲に肩を捉まれて、突然の相談を持ちかけられた。
「何だい、君から相談話を持ちかけられるという事は、また悪どい事でも思いついたんだろう? フフフ」
「ふん、言ってくれるな。いや、曹操をそろそろ都に呼び戻したいと思ってね」
張譲は相変わらずの冷徹な笑みを浮かべながら趙忠に語りかける。
「曹操? あぁ、今は亡き曹長秋の孫か。それなら自分で呼び戻せばいい話じゃないか。私に相談するほどの事でもないだろう」
「それが、あの宋皇后の事件に連座して免職になっているんだ」
「ふむ。大鴻臚の曹嵩は免職になっていないのに。彼の父親なんだろ?」
「曹操の母方の従妹の主人だった宋奇が処刑されたからね。父である曹嵩は直接は繋がっていない」
「なるほど」
趙忠は鬚のない自分の顎を撫でながら、張譲の取り留めの無い話を聞いていたが、少し表情が真剣になってきていた。




