第三十五話 趙拡延
三人はそれぞれの思惑の中、人と熱気で溢れかえる酒場へ入った。空いていた隅っこの卓の前で靴を脱ぎ、張世平と蘇双は正座をした。
この時代は椅子や卓はまだ一般的ではなかった。中世の日本と同じように正座して座るのが一般的であった。
「足をくずしてくれ。ここは私のオゴリだ。好きなだけ飲むがよい」
趙拡延は胡座をかいて座り、二人にも胡座を組むことを勧め、人を呼び勝手に注文をし始めた。
「いや、私たちは結構です。自分らで飲みますから」
言われるままに酒場へ入ったものの、張世平と蘇双の二人は正座をくずそうとせず、また施しを受けるのも拒否した。
「そうか。では勝手に飲み食いさせてもらうぞ」
手をあげてさらに注文をし始める趙拡延。とりあえず酒瓶を片手に一杯やっている。
「ここの焼豚が美味くってなぁ。酒がすすむったらありゃしない。なぁ、君たち本当に食べないのか。ここの豚はあの豪邸に住んでる肉屋の何氏から仕入れたモンだ。本当にウマイぞ」
蘇双が不機嫌そうな顔をして趙拡延が焼き豚を食べているの眺めている。
当時の豚肉は臭みを抜く技術があまり普及しておらず、苦手としている者が多かったという。
こそこそと後ろに下がった蘇双は世平に小声でいった。
「あんな家畜の肉なんてよく食べれますよね。糞を食って生きてるケモノですよ」
「黙るんだ。聞こえるぞ」
当時の大都市などでは、人の糞尿を豚に食べさせて処理する便所が普及しており、二階に厠を設置して、その便所の下に豚を住まわせていた。藁なども餌として与えていた。
「何氏って豚肉屋があの豪邸に住んでいるのですか。外戚ではなかったのですか?」
蘇双は話題を変えようと他の話を趙拡延に振った。
「今をときめく外戚の何氏も最初はただの肉屋だった。だが、そのうち薄汚い金の亡者になった。あの家にはたまたま何曄という美しい娘がいてな。二人の兄はその妹を賄賂でもって後宮入りさせたんだ」
商売人というのは古代においては身分の低い扱いだった。儒教観念では金儲けをするのは義に反するからだ。
しかし、多くの商売人は低い身分とは裏腹に裕福な暮らしだ。重農主義だった前漢とは変わって、後漢は重商主義の路線で経済を回していた。
「後宮入りした妹を足掛かりに、何進という兄は郎中、虎賁中郎将、潁川太守と、着々と出世を重ねている。もう一人の腹違い兄の何苗も同様に出世を続けているようだ。真っ先に我ら太平道の標的となる奴らだな」
「そんな話をしにここまで来られたのですか。そうではないでしょう。ハッキリ言って下さって結構です。どのようなご用を仰せつかったのですか」
張世平は落ち着いた表情で趙拡延に対して、ここまで追ってきた真相を問い質した。
「そうか。では、単刀直入に言わせてもらうが、また北方から馬を仕入れてきて欲しいのだ。数百頭はいるな」
蘇双は立ち上がって血相を変えた。身体を震わせて唾を吐くかのごとく怒る。
「どれだけ苦労して馬を運んできたか、わかってますか? 私たちは商人じゃない。それに、張大方(張曼成)の態度はあまりにも酷いじゃないですかっ。張世平様も大賢良師に認められた方(方面長)の一人だったのは知っているだろうに」
趙拡延はジッと蘇双を見つめて言い返した。
「わかっている。もちろん、君たちは商人ではない。そう、太平の道を共に歩まんとする同志だよ。我々は何氏一族のような金の亡者を許さない。そして賄賂を横行させて民を疲弊させる漢帝国も許さない。奴らを打倒しなければならん。その為にこそ我々に必要なのが充実した軍備なのだ。馬は軍の要になる重要な兵器だ。それを北方から運んでくる仕事は、太平の世を実現する為に必要で、重要な任務だとはおもわないかね?」
中国大陸では南船北馬と言って全国行脚を例えた言葉がある。交通手段の要になるのが北方では馬であり、南は船であった。北方は良質な馬の原産地である。張曼成は北方の馬に拘っていたのである。
「な……」
返す言葉もなく、声を詰まらせてしまう蘇双。趙拡延の言うことは確かに正論に聞こえる。
「心配ご無用。大方殿が馬が必要だというのなら、いくらでも集めましょう。しかし、先立つモノがなければ、任務を果たすことは出来ない」
めずらしく無心する張世平に対し、蘇双はまたも何か言いたげではあるが、押し黙って二人の話を聴いていた。
「それこそ、心配は無用だ。金はいくらでも用意できる。護送兵ももっと増やしてやってもいい。さぁ、足をくずして、一緒に酒を飲もうじゃないか」
張世平は勧められるままに盃に入った酒をあおった。酒を飲むのは数十年ぶりであろうか。
蘇双には彼の心の内が少し判るような気がした。今、自分たちがすべきこと、何の為に太平の道を歩もうと決めたのだろうか。二人とも自分の道に迷い始めていたのだ。




