第三十四話 宛
荊州の北端にあたる南陽郡。この地は後漢の初代皇帝である光武帝が生まれ育ち、彼を助けた多くの有能な忠臣を輩出した地である。
張世平と蘇双ら一行はこの南陽郡の宛県に立ち寄っていた。後漢時代の南陽郡は最も人口が多く、郡でありながら一州に相当するといわれていた。
日本で言えば市の人口が、他県の人口に相当するという事である。その中でも宛県は雒陽と並んで文化の中心として栄えていた。
中心市街である宛城から少しだけ離れた郊外の巨大な宮館(寺院)、いわゆる南陽における太平道の拠点に訪れるのが、張世平の今回の目的地である。
南陽の太平道を治めていた大方(太平道の首領の呼び名)である張曼成に謁見し、北方から連れてきた馬たちを引き渡した。
「ご苦労だった。だが、こんな数ではまだ馬が足りぬ。これから我々が立たなばならぬというのに、もう少し何とかならんのか?」
張曼成は少しばかり労をねぎらっただけで、張世平に対して見下した態度をとった。大賢良師である張角の一族ということで、普段から傲岸不遜な態度をしているという。
「申し訳ございません、張大方。しかし……」
「おい、貴様っ。何が大方だっ。儂の事は“神上使”と呼ぶのだっ。儂は大賢良師……いや、張角の部下などではないのだぞ。あくまで同等の立場だ。馬は取り引きで受け取っているだけに過ぎんっ」
いきなり張曼成が色をなしたので、張世平は訳もわからずその場を取り繕うしかできなかった。
神上使とは神の使いであるという意味だ。張曼成は数年後の甲子の年に合わせて、この宛で挙兵する計画なのだが、その際に年号を“神上”にしようとしているのだとか。
「本当に失礼致しました。田舎者ゆえ都会での時勢に疎く、貴方様の気分を害してしまいました。深く陳謝致します故、どうかご容赦を」
「なにが『ご容赦を』だっ。貴様の謝罪など、どうでもいい! 今すぐ帰って馬を持ってこい!」
張世平は平身低頭して謝罪し続けた。張曼成の気分が晴れることはなかったが、怒鳴り疲れると世平と蘇双を宮観から追い出した。
自尊心の強い張曼成には謝罪し続けるしかなかったが、大した意味はなかったようだ。
当然ながら蘇双は不快感を憶えずにいられなかったが、唇を噛んで屈辱に耐えた。張世平のひたすら謙って謝罪し続ける姿を見るのが一番辛かった。
非礼な振る舞いだとされたが、張曼成の許しを得た張世平と蘇双は、二人だけで早々に南陽の宮館を後にした。馬と共に護衛に当たっていた警備兵たちを置いて。
「神上使だなんて。とてもそんな器じゃないですよ、あの男は」
「そうだな。大賢良師には遠く及ばない」
張世平はまるで蘇双と口裏を合わせるように、張慢成への批判に同調した。蘇双は雰囲気をよんで頷いただけだった。
「士然よ、どうだね。少し街に寄っていかないか」
「ええ? 街ですか……。そうですね、そうしましょう」
張世平から街に寄りたいなどと、初めての事だった。少々おどろきはしたが、蘇双は張世平の言葉に従って宛城下の街に赴く事にした。
この宛城はどの門も大きく開かれて雒陽に負けず劣らず賑わっている。周囲三十六里(一五キロメートル)もある大城の城壁内は、市場の様に行き交う人々の活気で溢れかえっていた。
「世平様、いかがでしょう。ここら辺で少し休憩でもしませんか」
「うむ……」
とある酒場の前に二人は立ち止まった。酒場がある繁華街の向かい側には、だだっ広い壁があり、壁の上にとてつもない大豪邸が見えている。
「この壁……、かなり大きいですね。壁の上にはデカい豪邸も見える」
蘇双は思わず感嘆の声をあげた。世平も頷いて豪邸を眺めている。
すると、背後から近づいてきた男が、二人に向かって喋りかけてきた。
「宛は初めてか? あの豪邸が珍しいかね。あれはねぇ、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの……何氏が有する巨大な邸宅なのだよ」
振り返ると若く身体の逞しい男が立っている。
「え……」
この男が、自分たちに話しかけてきたと理解するまでに二人とも少し時間がかかった。
「何氏は今や外戚(皇后の親族)でね。何氏の親戚縁者は飛ぶ鳥を落とす勢いで、この宛の有力者だ」
世平と蘇双は顔を見合わせて、突然に話しかけて来た男の顔を不思議そうに覗きこんだ。
「怪しい者ではないぞ。先ほどは、南陽大方(張曼成)殿が失礼致した。私は趙拡延という者だ。大方の下で軍務を預からせてもらっている」
張世平は一歩下がって両手の袖を合わせると軽くお辞儀をした。
「そうでございますか。こちらこそ失礼致しました。で、こんな所までわざわざ、どんなご用でございましょうか?」
「まぁまぁ。ほら、そこの酒場で一杯やりながら話そうじゃないか」
「いや、しかし……」
蘇双は乗り気ではないようだが、太平道の一大勢力の一つであるこの宛で軍務を預かる男が、わざわざ二人に会う為にここまで来ているのだ。
「わかりました……」
張世平もその事を慮ってか、首をゆっくりと縦にふって酒場の方向へ手先を向けた。




