第三十三話 名馬
彼らが向かう頓丘へと続く道は、乾いた大地に続く道なき道として、延々と続いていた。
その道すがら、遠くの方からもくもくと立ち上がる巨大な砂埃が見えてき始めた。
「なぁ、兄貴。あの砂煙は一体何なんだろう? 軍隊が行軍してきてんのか?」
「いや、こちらの方に軍が派遣されたという話も、賊の反乱があるという情報も聞いてないな。あの砂煙の立ち方からして、馬の大群だろう。馬の行商かもしれんな」
「わかるのか?」
「さぁな。もしそうなら、良い馬があるか品定めでもしてみるか。なぁ、元譲」
「何言ってんだよ、兄貴。もし賊だったらどうする?」
「とにかく近づいて確認してみようぜ」
近づくにつれて砂煙の巻き上がる中心に馬の大群がいる事が視認できた。やはり、百頭近くはいるだろうか。どうやら馬の行商人らしい。
馬の蹄の音が響く中、数十人の用心棒らしき男達が、武装した姿で馬の群れの周りを取り囲んで移動している。
「馬を買いたいんだ。何頭か見させてくれないか?」
曹操は馬車から降りて、大声でその用心棒たちの頭目らしき男に話しかけた。
「何だ? 馬を買おうってのか?」
無愛想な雰囲気で応答するこの集団の棟梁らしき男。しかし、気にすることなく無邪気な子供のように話しかける曹操。
「そうだ。俺はこの度、頓丘の県令になる曹孟徳という者だ。できたら、良い馬が欲しい。選りすぐりの馬を数頭ばかり欲しいんだが」
「数頭だって? 馬鹿を言っちゃあいけねぇな。県令だか何だか知らないが、馬を買いたいなら少なくとも二十頭以上からだ」
「見ての通り、俺たちは二人だけだ。二十頭もいらないよ」
「じゃぁ、無理だな。俺達も先を急ぐんだ。あばよ」
夏侯惇がムッとした表情で身を乗り出し、額に血管を浮き上がらせながら大声で怒鳴り始めた。
「なんだ、その態度は。こっちは金を出して馬を買ってやろうって言ってんだぞ。俺らとは商売できねぇってのかっ?」
場の空気が一気に張り詰めた状況へと変わっていく。用心棒の男達もザワつき始めたが、制止を促す何者かの一言が聞こえてきた。
「待てっ、士然。何を揉めているんだ」
顔がゴツゴツとした白髪の男が集団の後方から馬に乗って現れた。
この男が馬商人達の頭目か。さきほど頭目だと思われた蘇双という人物は副頭目だったのか、と夏侯惇は思った。
「この頓丘の県令だという者が、馬を数頭買いたいと言ってきているのですが」
蘇双は一転して態度を軟化させ、静かに顛末を話している。
「そうか……」
白髪の男は、曹操らの方に振り返って頭を下げ、馬を降りて丁寧にお辞儀をした。
「この馬達はすでに売り手が決まっているのです。申し訳ないが諦めて欲しい」
曹操はこの白髪の男に見覚えがある様な気がした。ゴツゴツとした非常に特徴のある顔だったからだ。
「アンタとは一度、どこかであった事がある気がするんだが。もし良かったらアンタの名を教えてくれよ」
白髪の男は顔をしかめて、しばらくの間は沈黙していたが、やがて名乗りだした。
「私は張世平という者です。馬の行商を生業としています」
張世平はもちろん馬の行商が生業ではない。そして自らが望んで行なっている事でもない。
自ら張霊真を見逃してやった事を、馬鹿正直に大賢良師こと張角に報告した事で、方(方面長)候補から降格されて、馬を北方から南方に輸送する役回りをさせられていた。
「残念ながら、貴方とあった憶えはござらぬ」
「いや、確かに見た記憶がある。その顔は忘れられない顔だ。雒陽で、だったかな?」
張世平は曹操の言葉を遮る様に言葉を発した。
「わかりました。二頭だけなら売らせて頂きましょう。とびきりの馬が二頭います」
「ほう。それは嬉しいね」
曹操は急に態度を変えた張世平を不自然に思ったが、あえて問い直す事はしなかった。駿馬が手に入るなら余計な事は言わずにおこうと思ったのだ。
「士然。絶影と白鵠を見せてやれ」
「は? あの名馬を……ですか?」
「そうだ」
「し、しかし」
張世平は動揺している蘇双を無視して曹操の方に向きなおす。
「言っておきますが……値は張りますぞ」
「もちろんだ。俺は生まれてこのかた、金に苦労した一度も事はない。好きな値段を言ってくれてもかまわん」
「ふははは……それは頼もしい」
蘇双は二頭の白と黒の馬を引き連れてきた。二頭とも立派な体格をした駿馬である。
黒い馬は絶影と呼ばれ、影を残さぬほどに速いという意味である。まだ一歳になったばかりの若い馬だが、成年馬並の体格をしている。
白い馬は白鵠(白鳥)という名の葦毛馬で、これも疾風の如く速いらしい。
曹操はすぐに現金で支払いその二頭の馬を買い上げた。そうすると途端にご機嫌になって曹操は馬の頭を撫で始めた。
蘇双と夏侯惇は先ほどの無礼をお互いに謝罪すると、曹操と夏侯惇は頓丘県の方向に馬車を進め、意気揚々として去っていってしまった。
「世平様。この馬たちは太平道に必要な馬ですぞ。なのに、最も優れた駿馬を役人どもに売るなんて」
蘇双が張世平に対して愚痴を漏らした。
「わかっておる。二頭くらい良いではないか。それにしても、先ほどの県令だという若者は、曹という姓ではなかったかね?」
「ご存知だったんですか。確か、曹孟徳と名乗っておりました」
「そうか。間違いない、譙県曹家の御曹司だな。かなり昔だが、張譲の邸宅で出会った事がある。ワシの事を憶えている様子だったから、話を誤魔化す為に売ってやったが……」
「それなら、捕らえて殺しておいた方が良いのでは?」
「馬鹿もの。そんな簡単に殺すだの言うな。それに、お前では彼を打ち倒す事など出来ぬであろう」
「まさか。ははは。あんな小柄な男が、そんな……」
蘇双は、砂埃の中ですでに遠くに見える曹操たちの影を眺めながら、鼻で笑い飛ばしていた。




