第二十七話 曹操
二人がそんな話をしていたちょうど同じ頃、袁紹と袁術の両派閥による小競り合いが始まっていた。
というより、袁術の一方的ないびりである、と言った方がいいかもしれない。
「よう、本初。久しぶりだなあ。三年たったからもうお前の母親の喪は明けただろう?いつまでそんな小汚い格好でうろついてんだよ。俺の方まで恥ずかしくなるぜ」
袁紹は一言も言い返さずにいたが、毅然とした態度で袁術を見つめていた。そこへ、袁紹と袁術の二人ともが幼い頃からよく知っている仲である張邈が二人の間に割って入った。
「公路(袁術の字)殿。公然の場であまりにも無礼ではありませんか。本初殿はたとえ義理とはいえ、貴方の兄上ですよ」
「兄上だと……? 俺はその男を兄だと思った事はない!」
袁術のとんでもない一言に、場の空気は一瞬で凍りついた。時が止まったかのように無音の状態が暫し続いた。
「無礼な! なんて事を!」
張り詰めた空気が破裂するように袁紹の友人たちが騒ぎ始めた。袁術も受けて立つといった面持ちで不敵な笑みを浮かべている。
そんな空気の中、袁紹がついに言葉を発した。
「なぁ、公路よ。私は今年からまた父の喪に服するつもりなんだ。できれば、あまり騒ぎ立てないで欲しのだが」
「ああ? お前の親父は、お前が生まれてすぐに死んだのに、また三年も喪に服するってのか。馬鹿も休み休み言え。せっかく俺が斡旋してやった仕官の誘いも断りやがって。俺の立場も考えろ」
今度は、あの月旦評で名を上げた若者である曹操が、袁紹と袁術の間に割って入った。
「おい。そんな言い方ねぇだろ、アンタ。本初さんも事を荒らげたくないって言ってんだからさ。ここは穏便に話し合いをしようじゃねぇか」
曹操の口調はなんとも軽いノリで、緊迫した雰囲気をガラッと変えて見せた。
「はぁ!?」
袁術も調子を狂わされたようでキョトンとした顔をしている。
「だからさ、お互い名門同士なんだから仲良くしようぜ、って事さ」
しかし、和やかな空気を濁す容赦ない言葉が袁術の口から吐出された。
「チビのくせになんだっ、無礼者がっ。お前みたいに汚れた一族の人間とは話したくもないわい」
「何だとぉ!」
瞬時に曹操の怒髪が逆立ち、思わず剣の鞘に手をかけた。
だが、その瞬間、江南の青年将校である孫堅が、素早く曹操の前に立ちはだかった。
「おっと、やめときや。こんなくだらんケンカを大事にしてもエエ事あらへんで」
袁術の後ろにいた筈の、あの大男が一瞬で、一丈(約二メートル)の距離を縮めて忽然と出現したかのように、いきなり曹操の目の前に立ち塞がったのだ。
「お……!」
さすがの曹操も一瞬たじろぎ、孫堅を下から睨みつつも、剣の束からはゆっくりと手を離していた。
「それでええ。つまらん男を斬って、自分の将来を台無しにしたらアカンで」
孫堅は袁術には聞こえないように小声で曹操に語りかけた。その言葉を聞いて曹操は、静かに振り返らず後退した。
「どうした、文台。一体、何なんだ。突然、目の前に現れやがって」
びっくりした袁術が孫堅に後ろから問いかけた。どうやら袁術は曹操が剣に手をかけた事に気づかなかったらしい。
「さあ! 余興はこれまでだ。公路よ、もうこれぐらいで勘弁してくれないか?」
曹操と孫堅の小競り合いで張り詰めた緊張の糸を解すように、袁紹は穏やかな口調で袁術を諭そうとした。袁術もさすがにこの場の重い空気を感じ取ったらしい。
「ふんっ、しらけちまったぜ。仕方ねぇ、今日の所は見逃してやらぁ。おいっ、お前ら帰るぞ」
袁術はそう言うと地面にツバを吐き捨て、お供の者達をぞろぞろ引き連れて城門の中に戻っていった。
ただ、孫堅だけは少しその場にいて、笑みを浮かつつ曹操を見ていた。少しすると背を向け、遅れて城門の中に入っていった。
(あの孫文台――という男、只者じゃないな――)
孫堅は自分を庇う為に、あの素早い動きで制止したと曹操は感じ取った。
「先ほどは、私が不甲斐ない為に、君らには面倒をかけてしまったな。すまない……」
へりくだって頭を下げる袁紹を見て、皆一様に同じく礼を返した。曹操は礼を終えた後、袁紹に言葉を返した。
「何言ってんですか。オレの方こそ役に立てずに面目ないです、本初さん。それにしても、先ほど言ってた事は本当ですか?」
「あと三年、私の父と母の喪に服するという事か?」
「ええ。母君の喪に服するのは子として当然でしょうけど、幼い頃に亡くなったという父君の喪を、今この時になって服するというのは……」
「私はこの時間を使って、天下の名士と数多く交わりたいと思っている。いつか時代が私を必要とする時が来るだろう。その時まではなるべく目立たぬ様に過ごしていたいのだ」
「そ……そうですか。本初さんがそう言うんだったら……」
曹操は少々物足りなさそうな表情を浮かべ、お辞儀しながら袁紹が帰宅するのを見送った。
そして、南東に位置する城門の開陽門の上空に広がりつつある、天空一面を覆うドス黒い曇の壁を見上げた。
(乱世はそう遠くない未来、必ず訪れる。たとえ奸雄と呼ばれようとも、この中原にオレの名を響かせてみせるーー)
そう心の中で呟くと拳を強く握り締めて、流れる暗雲の行き先を追い始めた。その先には後漢の都、雒陽が広がっている。
数ヶ月後、曹操は雒陽の北部尉(北宮警備隊長)の職を拝命する事になった。




