第二十六話 二袁
名家のお坊ちゃん……と公孫瓚に呼ばれた青年は、姓を袁、名を紹、字は本初という。
袁(術)公路に較べて随分と顔立ちが整い、背も高く容姿が立派でしかも落ち着いている。彼の方がいかにも御曹司という感じの風采である。
「母親が最近亡くなって喪に服しているらしい。だがよ、奴の周りには凄えヤツらが集まってるんだ。あそこにいる連中で言えば、許(攸)子遠、張(邈)孟卓、 伍(孚)徳瑜、とかだな」
この時代の儒教観念では、親が亡くなると三年もの間、喪に服すというのが習わしであった。しかも文字通り喪に服すが故の作法として、過度に質素で慎ましい生活を送るのが好ましいとされていた。
「実は、袁家の二人の坊っちゃんにはもう一人、年の離れた長男がいるんだが、これが全く目立たない男らしい。一応、亡くなった親父の跡を継いで安国亭侯の爵位はあるらしいがな。まぁ、本初と公路の二人が際立って目立っているんで存在感がないんだろうな」
「長男がいるのにその弟たちが跡目争いみたいな事をしてるってワケか。なんだかよく判らねぇけど、伯珪兄貴はかなりの情報通だな。何でも知ってるみたいだぜ」
「まぁ、実は、盧先生の受け売りって所もあるけどな。ははは」
「じゃあさ、もう一人のお坊ちゃんの本初って奴の隣に……、小柄な男がいるよな? アイツは一体、誰なんだい?」
「ああ、あれは曹孟徳って奴だな。大長秋って官位だった大宦官の孫なんだとよ。もの凄え金持ちだっていう話だ」
「あれ、宦官だろ。チン無し野郎になんで子や孫がいるんだ?」
「養子だよ、養子。高位の宦官は養子を迎えることができるのさ。その養子の息子が、孫の曹孟徳ってワケだ。そんなにアイツが気になるのか?」
「まぁ、そうだな。あの曹孟徳って奴、小柄だけどタダ者じゃない気がするんだよな……」
袁紹の取り巻きを構成する若き有名人たちは、食生活に恵まれていたせいか、決まって長身で大柄な体格をしており、育ちの良さや品格が体躯に表れていた。
そんな生え抜きの若者たちの中でも、その体格の小柄さが目立っていたのが曹操であった。しかし、小柄な筈の曹操が醸し出す大きな存在感が、劉備には気になったようだ。
「ほう。お前も少しは見る目があるようだな。あの曹孟徳って奴はかなり出来る男らしい。月旦評って聞いた事あるか?」
「月旦評? 何だそりゃ?」
「人物評で有名な許劭って奴を知らないか? そいつは月の始めに人物品評会を開いていてな。いつも都中の評判になるんだが、そこで高く評価された輩は必ず出世すると言われてる。で、あの曹操は面白い評を得て京師の評判になったんだ」
「どんな評判だったんだい?」
「『子治世之能臣亂世之奸雄(治世の能臣、乱世の奸雄)』だってよ」
「確かに面白れぇな、それ。平和な世の中でなら有能な奴で、乱世になった悪の英雄になる、って事か」
「面白いだろう。だが、俺はなぁ、ああいう人物評だとか、有名人だとか、いいトコのお坊ちゃんどものお遊びが気にいらねぇ。虫唾が走るぜ。お前もそうだろう?」
「ん? ああ、まぁ……な」
公孫瓚は心から御曹司たちを憎んだが、劉備にとっては憧れの対象として目に映った。二人の感情には温度差があった。
「なぁ、玄徳。近い内に、この世は必ず、乱世になるぞ」
「乱世? 急に何だよ、伯珪兄貴」
「あれを見ろよ」
公孫瓚の指差した方向には、造りかけの巨大な石版がある。よく見ると白い石灰でなにやらイタズラ書きがされてある。
「蒼天……已死……? そういや、最近あちこちでよく見かける落書きだな」
「蒼天すでに死す、この青い空はもう死んでいる。つまり、この平和な治世はもうすぐ終わるという事だ。皆この落書きを見て、もう漢室は長くはもたないだろうと噂し合っている」
「こんな落書きで、そんな噂が流れているのか」
「京師やこの近辺はいつも賑わってるからつい忘れちまうが、俺たちの故郷に住む人民たちがどんなに酷い暮らしをしていたか、お前も忘れちゃあいないだろ」
「ああ……」
「盧先生に聞いた話によると、中華の各地では飢饉や疫病が流行り、賊の反乱が頻繁に巻き起こっている。もちろん俺たちの故郷もそうだった。いつかこの京師も戦乱に巻き込まれる事になるだろう、とも言っていた」
「そんな日が来るのか……?」
「たぶん、来るだろうな。いや、俺は来て欲しいと願っている。玄徳よ、お前にだからこそ俺の本心を言うが、乱世こそがっ、俺の待ち望む世界なんだ。乱世になれば俺は、あの生け簀かねえお坊ちゃんどもを押しのけて出世し、いつかは一国一城の主になる事ができる」
「そうか。そん時は、兄貴に付いていくぜ。俺の故郷で仲間が待っているんだ。そいつらを連れて行くよ」
「おう、そいつは頼もしいな。これからも宜しく頼むぜ、玄徳」
口では公孫瓚に話を合わせた劉備であったが、その心根は少々違っていた。公孫瓚は頼れる兄貴分だが、本心を言うべき相手ではないと思った。
劉備は高貴な身分を羨んだり、憎んだりする気持ちは持っていない。公孫瓚のような劣等感を理解できるが、同調はできない。
自分の中に沸き起こる野心、それは若き劉備には自身でさえ気付けなかった。




