第一八〇話 改元
中平六年(一八九年)十二月、衛茲や鮑信の協力を得た曹操は、陳留郡己吾県にて挙兵した。
波乱にうねり狂った中平六年は足早に過ぎた。振り返ればこの一年は曰く付きの歳月であった。
四月に第十三代皇帝として劉弁が即位した際、元号は光熹とされて改元された。
だが、八月に起こった宦官による皇帝拉致事件から生還後、光熹から昭寧と改めるに至った。
さらにその三日後の九月になると第十四代皇帝となる劉協が即位し、三たび元号を改めて永漢とした。
極めつけは十二月、それまでの光熹、昭寧、永漢の三つの元号は破棄されて、中平六年に戻されたのだ。
西暦一八九年に四度も改元された中平六年は、厳しい寒さと共に足早に過ぎ去っていった。
元日(一九〇年)を迎え、朝廷は元号を「初平」と改元した。
元号を改めるのは主に皇帝が新たに即位した時だが、劉協が即位してからすでに二度改元された事になるが、さらに改元された。
初平と名付けられた元号には、平和の初めの年となるように願いが込められていたに違いない。
だが皮肉にも更なる波乱の幕開け、中原は文字通り乱世となるのだった。
寒の戻り厳しい春一番が、これから起こる風雲急を予感させた。旧暦での正月は春を迎える季節となる。
朝もやの煙る早朝の朝廷では、続々と入ってくる凶聞に董卓は苦虫を噛み潰していた。
「曹操と張邈が己吾にて賊軍の反旗を掲げたとの報せが届きました。彼らに続いて、関東の諸将が次々と酸棗に集まっています。斥候からの情報によると、兗州刺史の劉岱、東郡太守の橋瑁、山陽郡太守の袁遺、済北国相の鮑信、予州刺史の孔伷、広陵郡太守で張邈の弟の張超……」
「もうよいっ、小癪な馬鹿どもが! 小物ばかりが空威張りしおって。それより気がかりなのは袁紹だ。韓馥からの密使はどうした?」
「申し訳ありません……、密使からの便りは数日前から途絶えております」
「くそっ、やはり袁紹に寝返ったかっ。袁紹も必ず賊どもと合流するはずだ。謀反を起こした奴らに加担した者は一人残らずひっ捕らえろっ」
董卓は苦虫を噛み潰したように、李儒の報告に対して憤懣を募らせた。周りにいた群臣達からも怒号が鳴っている。
「賊どもを取り立てろと進言した奴は、どの面下げてここに居座っているのだ?」
董卓が言っているのは周毖や黄琬の事を指している。反董卓と目される諸将の多くは、周毖や黄琬が官位に推薦した士ばかりだった。
眼光鋭く睨みつける董卓の恫喝に、周毖と黄琬はただただ頭を下げるばかりだった。一切、言い訳も口答えもしなかった。
「なんとか言えっ。相国に申し訳ないと思わんのかっ」
どこからともなく怒号が飛んだ。そのうちに二人を非難する声で朝議が埋め尽くされた。
「静かにせいっ」
董卓の一喝で、怒号が止み一斉に静まり返った。
「なぁ、袁後将軍。君の兄が謀反を起こしたことをどう思う?」
後将軍とは言わずもがな、袁紹の異母弟である袁術である。
「袁一族の恥です。私はあやつのことを兄だと思ったことはありません。私に討伐の勅命を下して頂きたい」
袁紹と袁術の仲が良くないのは朝廷内でも周知の事実だった。とはいえ、先の宦官掃討戦では二人が協力しているので、董卓も全幅の信頼を置いている訳ではない。
また、袁一族が四世三公と謳われた名門なのを知らぬ者はいない。叔父の袁隗を始めとする袁家の重臣はまだ雒陽にいる。
「後将軍の実力を疑う訳ではないが、ここはワシの婿に任せようと思っている。ん? そういや姿が見えんが……」
董卓のは娘婿である牛輔を重用していた。才能があるわけではないが、容姿が良いのと董卓に媚びへつらうのが得意で気に入られていたのだ。
「中郎将はまだ朝議場に到着しておられません……」
「なんだと?」
董卓の怒りが頭頂に達する前に、急ぎの使者が現れて董卓の側まで走り寄った。
「急報ゆえにて、失礼いたします。河内の王匡が挙兵し、孟津に向かっているそうですっ」
「小童がいきりおって。孟津なら此処から目と鼻の先だ。すぐに兵を準備しろっ」
慌ただしく牛輔がすぐ駆け付けて、重そうな身体で董卓の眼前に謁見した。
「かかっか、閣下っ、遅れ馳せながら駆けつけましたっ」
牛輔は遅刻の許されない朝議に遅れてきたせいか、冷や汗をかきながら吃る姿が痛々しかった。
「遅れましたのは……その……」
「言い訳はいらんっ。婿でなければすぐに首を刎ねているぞ。汚名返上の機会を与えてやるから、すぐ出立せいっ」
「はいっ!」
悲鳴のような返事をしたあと、牛輔はそそくさと退出していった。その場にいた諸将も彼に続いて出て行く。
彼らが退出したあとで、呂布を小声で董卓に耳打ちするように言った。
「父上、この私の出番はないんですか?」
明らかに呂布は不満を顕にして尋ねている。董卓は面倒臭そうに返した。
「安心しろ、お前に相応しい舞台はまだある」
「お言葉ですが、白波賊の討伐もできない牛中郎将を使うんですか?」
「賊ども如きに戦力を削ぐより、金目の物で大人しくさせただけだ。あれは、李儒の策だ」
「自分が言いたのは、牛中郎将が適任か、って事です」
蒸すような血気が呂布を急かしている。戦場に出たくてウズウズしている。
「アイツは極端な臆病者で、石橋でも叩いてから渡るような男だ。だからこそ、適任なのだ。我が西涼の軍は実戦で鍛えた最強の軍だ。だが、中原の奴らは姑息な手で戦を巻く頭がある。油断ならぬ奴らだ。お前も覚えておけ。馬に頼ってばかりだと、虚を突かれるぞ」
自分が騎兵頼みの将だと思われているのが、我慢ならなかった。戦の駆け引きにも、経験の豊富さにも自信がある。
「父上っ。自分なら、中原の腰抜けどもなど、簡単に蹴散らしてみせますが」
「貴様、ワシに意見するつもりかっ。父子の契を交わしたからといって調子に乗るなよ」
気持ちばかり焦る呂布だが、董卓から直々に受けた下知は無視できない。
「くっ」
呂布は思わず口答えしそうになったが、怒りを握りしめるように拳を強く握った。
行軍する牛輔もまた、董卓から預かった兵符を強く握りしめていた。そして身体は小刻みに震えていた。
「おいに秘策があっとです。中郎将んば実力を見せつけちゃりましょう」
不安に駆られる牛輔の隣で自信ありげに囁いたのは、平津都尉に就任した賈詡という男だ。
字を文和といいい、涼州武威郡姑臧県の出自だ。
姑臧県は多民族が多く交わる涼州でも一際おおきな都市だ。賈詡は地元で才子と知られていたが、病気療養で官界から身を引いていた。
地方での療養中、異民族に拐われた事があった。数十人と一緒に因われたが、生き残ったのは賈詡一人だった。
「おいは段公ん外孫や。おいが死んだら墓立ててくれや。おいの一族からお礼してもらえるばい」
異民族から畏敬された段熲の一族だと謳ったことで死を免れた。その件で一躍、賈詡は策謀家として知られたのだ。もちろん、段熲とは縁もゆかりも無い。
「きさんの言う通りにするけん。なんでも言うちゃってくれ」
賈詡は無言で頷くと、牛輔の持つ兵符を貸して欲しいと頼んだ。
「部曲を少しばかり借りますけん。おいの策は――」
牛輔は何度も頷いて納得すると、賈詡に恐る恐ると兵符を渡した。踵を返して馬の向きを変えると、賈詡は馬の腹を蹴って進み始めた。