第一七九話 衛茲
曹操は衛茲の邸宅の門番に、張邈が認めた書簡を渡した。
すると衛茲本人が門の入り口までやってきて曹操を出迎えた。早速、屋内に案内されて歓待を受けた。
「貴方が曹孟徳どのですね。孟卓どのから聞いております」
「ええ、曹孟徳です。董卓に睨まれて京師から追われてきました」
「ふふふ。穏やかではありませぬな。噂では董卓に刃を向けて京師を飛び出したのだとか。それが酔狂でなければ、貴殿は国士という事になる」
「それは尾ひれの付いた噂に過ぎませぬ。たとえ酔狂と謳われようと国のために私は戦いたい」
曹操の唐突で不躾な訪問は、自分を売るための一つの戦略でもあった。しかし、衛茲もまた張邈より曹操の為人を聞き、確かめてみたいと思っていた。
「なるほど、孟卓どのの言うとおりの方ですな。あなたの字も孟徳とは、同じように国を想う士として、人も字も似た者同士ですな」
「ははっ。とはいえ、国士を気取ったところで董卓を倒せるわけではありません。いまや天子をも傀儡とし、政も意のまままにせんとしています。このままでは天下は大いに乱れるのは必死。だが、誰かが口火を切って董卓討伐の狼煙を上げれば、多くの諸侯が反旗を翻すのは必定かと思われます」
「面白い話ですな。できれば酒を飲みながら話の続きを聞きたい。いかがかな?」
「いいですね。久しぶりの酒ですから、有り難く頂戴します」
衛茲はすっかり曹操と意気投合し、酒を酌み交わしながら大いに語らった。
「かつて司徒の招聘をも拒んだとお聞きしました。何か理由でもあったのでしょうか?」
「世俗の名声に興味は無い。しかし今、董卓という奸物に京師を乗っ取られ、朝廷は混迷を極めている。これを鎮めるには、関東諸国の英傑を集結させるしかありません」
「つまり、私の考えと同じということですな――」
その日は夜も更けてきたので、初見なのに不躾ながら宿泊させてもらう事にした。もともと厚顔な曹操でも、連泊するのは流石に気が引けたので、翌日には張邈のいる己吾に戻ることにした。
衛茲の邸宅を出てから少しして、誰かが着けてくる気配を感じた。その気配はあからさまな存在感を放ったままであった。
「典韋か――。さぁ、帰りも一緒に来いよ」
「やっぱりお見通しかぁ、孟徳さん。おらぁ、アンタが気に入ちまってさ」
典韋は遠巻きに曹操を護衛しようと考えていたようだが、すぐに曹操に勘付かれた。そういう不器用さと実直さに典韋の侠気を感じたのだ。
「わざわざ待っていたのかい。すまないな。これから俺は数日おきに、ここに通おうと思っている」
「この距離を通うんですか。それなら近くで野宿した方がいいんじゃないですか?」
「それならそれで、護衛の君や、孟卓にも気遣いをかけてしまう。かと言って衛公の邸に何度も泊まらせてもらうことはできない。なんといっても衛公には、俺の誠意を見てもらいたいというのもある」
「ふーん。そんなもんですかね。まぁ、おいらはアンタと一緒に同行できるのは嬉しいけどよ」
言葉通り、曹操はその後も数回ほど衛茲の邸宅に訪れた。その度に典韋は護衛に付いてくれた。隣の県にある衛茲宅に訪れるのは、曹操もなかば典韋との同行を楽しんでいたのだった。
そして衛茲宅に何度も訪問を繰り返し、たびたび来たる乱世について憂い語りあった。
(自分の兵が欲しい。自分で指揮を執って戦場に立ち、命がけで戦いたい……)
「こうして酒を飲み語らうのも悪くないが……、そろそろ単刀直入に言ってくれないか。貴方の心の内にあるその秘めた想いを」
曹操は酒の盃を置き、正座し直して衛茲の目を見つめた。
「では、心の内を打ち明けましょう――。貴方の力を貸して欲しい……」
衛茲も盃を置いて、同じように曹操と向き合った。
「貴方が起つなら必ずや討董卓を掲げて立つ諸将も出てくるだろう。誰かが火付け役にならなければならぬ。だから私の部曲を使って欲しい。戦歴のある孟徳殿に仕える方が、兵にも良いだろう。この私も一緒に随行させてもらう」
破格な申し出に、曹操は驚き畏まった。衛茲の部曲はざっと三千人前後はいるという話だ。
曹操は地に吸い付くように跪いて快諾した。
「恥ずかしながら、その言葉を待っておりました……」
嬉しさで震える身体を抑えきれず、曹操は目頭を熱くして礼を何度も述べた。
「時代は乱世を迎えている――」
衛茲はおもむろにそう言った。誰かが何度かそう言っていたのを何度も耳にした。
だが、そのあとに続く言葉は曹操が初めて耳にしたものだった。
「そしてこの乱世を平定する者がいるとしたら、それは貴方だ――」
「そんな。恐れ多いです」
そういえば、以前にも似たような言葉を聞いた。曹操の恩師である橋玄から後時を託された時を思い出した。
妻子を頼む――。それは曹操の将来性を見込んでの遺言だったと受け取った。
今また、目の前の出会ったばかりの男が、自分を嘱望してくれているのだ。
「ここに集まった者たちは、董卓を倒すためなら命をも惜しまぬ」
衛茲は三千人の部曲を前にそう言った。だが、この部曲が命を惜しまぬのは、衛茲のためだろう。
そんな男が自分のために一緒に戦ってくれるというのだ。曹操は武者震いを止めることができなかった。
数日後、兗州済北国の相(知事)に就任したばかりの鮑信も、五千の軍勢を率いて己吾に到着した。
弟の鮑韜も戦列に加わっており、鮑一族にとって総出での出陣であった。
無論、董卓討伐の狼煙を上げる為だ。そして、曹操との約束を果たすためでもあった。
歓喜に心躍る曹操は、鮑信を熱烈に出迎えた。
「尺牘(便り)をくれて感謝するよ。色々と大変だったと聞いている。無事で何よりだった」
「ご配慮感謝します。それより、鮑済北どの。この時を待ってました。これであの憎っくき謀反者の董卓に、一矢報いることが出来る」
「允誠と呼んでくれ。それにしても董卓の奴、古の最高職の相国に就いたとはな。数百年だれも侵さなかった不文律を乱すほど増長している始末。あの時、董卓を討っていれば……。しかし、過ぎた事を悔やんでも仕方がない。今からその過ちを糺す」
二人が軍勢の前で話していると、張邈もやって来て鮑信を手厚く出迎えた。
「やあ、允誠どの。よくぞ来てくれた。今しがた、三公の署名入りで檄文が手元に届いてな。恐らく、私のような跳ねっ返りの太守たちには届いているだろう。逆賊の董卓を討て、とね」
張邈は檄文を二人に見せた。檄文とは緊急招集を下達する勅書で、朝廷からの勅命ならば三公である三人の署名が書き連ねてある。
(董卓の配下にある三公が檄文を……? ありえない話だ。誰かが偽造したに違いない)
檄文を見た鮑信は懐疑的だったが、張邈は意に介さない。
「この檄文は各地の諸将に行き渡っているだろう。我らが先んじて挙兵すれば、他の諸将も続々と董卓に反旗を翻す!」
曹操は力強く頷き、張邈は肩を叩いた。そして今後の諸事を打ち合わせしてその場を去った。
「あの檄文、孟卓どのが仕組んだのでは?」
鮑信は小声で曹操に話した。
「まさか――」
曹操は驚きを隠した。鮑信の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
「もしくは、袁兄弟のどちらかかもな。何か大きな陰謀の渦に巻き込まれようとしているのかもしれん」
「例えそうだとしても、孟卓が言うように我々には切掛けが必要だった。我々が先んじて挙兵し、諸将を集めて董卓を討つには絶好の機会です」
鮑信は黙って頷いた。曹操の覚悟が目に宿っているのが見える。この男と一緒なら迷いはない、鮑信は改めて自分に誓った。
後で分かった事だが、檄文はやはり捏造されたもので、首謀者は兗州東郡太守の橋瑁だった。
彼の単独で起こした行動か、誰かの描いた絵なのかは分からない。