第一七八話 護衛
ここ数日は不眠不休の逃避行だったが、曹操は深い眠りを得られることはなかった。
それは当然ながら安眠だったとは言い難い。ほんの些細な音でもその都度に目が覚めた。
数回は眠りから覚めただろうか。だが、朝方の馬の嘶きで身を起こした。
(馬か。まさか追手が――)
曹操はすぐに剣を取って構えた。卞蓮も起きたが、異様な雰囲気に気付いて我が子を抱き寄せた。
(あの男は裏切りなどしない。しかし、万が一もありうる――)
だが、曹操は手に取った剣をゆっくり下に置いた。
(蓮たちを置いてはいけぬ以上、身構えても仕方のないこと――)
二人とも覚悟は決めていた。意を決して外に出てみると、自身の疑り深さに嘆息した。
嘶いた馬は、任峻が善意から用意した容車だった。
容車は官吏の婦人を乗せる馬車で、幌のついた馬車だ。幼子を抱く卞蓮を後ろに乗せて、曹操が馬を駆るのだ。
その馬車を前に任峻は頭を下げて、曹操に手を向けた。
「すみません、こういうものしかなくって。ただ、これなら返って怪しまれないのではないかと」
何がどうなら怪しまれないかは、実際はわからないものだ。ただ、この容車があれば楽に移動できる。今はそれで十分だ。
「有り難い。何から何まで本当に色々と世話になった。この恩義は決して忘れない。また必ず会おう」
「ええ、また必ず」
互いに同じ志を確認しあった二人には、多くの言葉はいらなかった。
曹操は容車の荷台に卞蓮と幼子を乗せると、自身は馬に乗ってを手綱を取った。
今朝も空は薄暗い雲に覆われている。このところ晴れた日を見たことがないが、雨が降っていないだけマシだった。
河南尹(河南郡)中牟県から南東へと三百里(120km)の道のりを一週間ほど進んだ。
そしてようやく兗州陳留郡の己吾県に辿り着いた。
ちなみに、今上(現)皇帝である劉協の即位前の称号が陳留王である。よって、その間は陳留郡ではなく陳留国であった。
皇族が統治する間は、郡ではなく国となっているのだ。とはいえ、皇族に統治権は与えられていないので、あくまで名目上の称号である。
その陳留郡の統治を任されたのが張邈であった。董卓は袁紹や袁術に次いで名声の高かった張邈を陳留郡の太守に任じた。
曹操が陳留に寄った理由は前述のとおり、親友の張邈に会うためだった。
親友とはいえ、今はお尋ね者の身である。迷惑をかけるのを承知で会いに行くのだ。張邈は大手を振って出迎えてくれるだろうか。
曹操が抱えもつ一抹の不安は、思ったとおり杞憂であった。
「よくぞ無事に辿り着いたものだ。ここに寄ってくれるであろう事は、公路殿の密使によって情報を得ていた。ひとまずが安心して寛いでくれ」
張邈は疲れきっていた曹操を暖かく迎え入れたが、袁術からの密使と聞いて、喉に何か引っ掛かるような感覚を覚えた。
「公路殿の密使だとっ。私はアイツのおかげで酷い目にあったんだぞっ」
怒鳴るつもりはなかったが、思わず声を大にしてしまった。
「何があったんだ」
曹操は事の発端から今までの経緯を、怒りに任せて張邈にぶちまけた。
「君の怒りはわかる。若干、行き違いがあったようだ。公路殿は必ずや君が董卓討伐の為に立ち上がる、と信じていたのだ」
「だとしても、こんなやり方は承服できん」
「では、本初(袁紹)殿が我らに相談もせず出奔した事についてはどう思う?」
「何が言いたいのだ」
「兄のように慕ってた男が突然、何も言わずに消えた。その後は連絡も取れない。だが、公路殿は我らと共に行動を起こそうとした。君の家族は彼の根回しがあればこそ京師を早めに出奔できた。そういう見方をすれば、自身の優柔不断さが危機を招いたと思わないか?」
確かに、曹操は自分の優柔不断さを認めざる得なかった。
董卓に叛意がありながら、仕えようとしていた。袁術が手荒い手段を使わなければ、曹操がこうして陳留に来ることも無かっただろう。そして、袁紹は一人で逃亡したのだ。
「くっ……」
「納得出来ないようだな、孟徳。まぁ、いい。今は疲れているんだろう。少し休むがよい」
「すまんな。さっきは怒鳴ってしまって。君がいなければこうして心からの休息を得ることはできなかった」
「いいんだ。さぁ、ゆっくり身体を休めておけ。」
張邈の言に素直に従った曹操は、丸一日休息を取った。親友の邸宅では何の心配もなく、泥のように眠りを貪った。
翌日、逃避行の疲れを癒やしたであろう曹操をみて、張邈は一つ提案を持ちかけた。
「どうだ、昨日は十分に骨休めできたか」
「ああ、一日休んだからな。だが、ゆっくりしている時間はない」
「それはわかっているが、焦りは禁物だ。なぁ、知っているとは思うが、隣の襄邑県に衛子許という人物がいる、どうだ、会いに行ってみないか。会っておいて損のない人物だぞ」
「衛子許――。彼の高名は俺も何度か耳にしている。それは有り難い話だ。是非合わせてくれ」
衛子許とは……姓名を衛茲、字を子許という。
陳留郡でも特に名の知られた名家で、徳と節義を持って知られた人物であった。
若い頃は郭泰という名門儒家の弟子で、かつては朝廷に何度も招聘されたが、固く固辞して政に関わることはなかった。
現在は陳留太守となった張邈が、密かに懇意にしている。衛茲の高名は曹操も耳にしていた。
「君ならそう言うと思っていた。襄邑までの道のりは護衛をつけるから心配いらん。君の妃と子息は俺が匿っておくから、すぐにでも会いに行ってこい」
「なぜそこまで俺に……」
「盟友だからさ。それに、自分には彼を動かす力はなかった。だが、君なら彼の助力を得られるやもしれん」
張邈の惜しみない友情に曹操は目頭を熱くした。そして翌日の早朝すぐに出立した。
その道中に護衛についたのが、典韋という偉丈夫であった。
大柄な典韋は大きな矛を乗せた肩で、風を切って歩いている。
小柄な曹操はその横で馬に乗って、手綱を引いて進む。
その後ろからは典韋の手下が数人ついてくる。彼らも親分のように肩で風を切って歩いている。
「孟卓から聞いたんだが、俺の従弟の元譲の護衛についてくれたそうだな。張譲への邸宅に行く際に活躍してくれたと聞いている」
「元譲さんか……。あんたが従兄なんだな。あの旅は楽しかったなぁ」
「ふふふ。元譲もそう言っていたよ。命を懸けた旅でも遊興と変わらんのだな」
「戦も遊びも、命張らなきゃ楽しめねぇですよ。そういうアンタも、董卓を相手に喧嘩売ってきたって聞いてますぜ。相当な命知らずじゃなきゃできねぇ芸当だ」
曹操は口元を緩めて笑うばかりだった。
「いつから孟卓に仕えているんだ?」
「いや、実際には張太守の直属じゃぁねえんです。司馬(副官)の趙公に仕えてるんですわ」
「そうか。なぜ君のような逸材を側に置かないのか理解できんな」
「なんつうか、どうも俺とは気が合わねぇというか……。でもアンタとなら気が合いそうですわ」
典韋が頭をかきながら、小声で言った。
「はははっ、俺もそう思うよ。だが、親友の部下を勝手に引き抜く訳にはいかないからな」
旅の道中では典韋が、これから向かう襄邑県での話になった。襄邑の劉氏には世話になった恩義があり、劉氏の仇敵である李永の邸宅に単身で乗り込み刺殺したという。
「李永には百人以上の食客がいましてなぁ。その場は逃げおおせたんですが、あとからウヨウヨ追ってきて。まぁ、一人残らず返り討ちにしてやったんですよ」
「その話も聞いている。君がどれほどの豪傑なのかは、一目みれば瞭然だ」
典韋はまたも頭を掻いて、今度は大声で笑った。襄邑までの道のりは曹操にとっても愉快なものだった。
張邈の傘下にいる以上、この男を引き抜いて自分の部下にする事はできない。だが、いつかまた再び彼が自分の護衛になってくれる事を願った。
衛茲の邸宅に辿り着いたのは、雲を赤く染めていた頃だった。曹操はまた会おうと誓って、護衛として同行してくれた典韋と別れた。