第一七六話 厨の殺戮
「曹操邸が蛻の殻だっただとぉ! 見張りの兵を張っていたのに、なんたる失態だっ。どんな手を使ってでも必ず捕らえろ!」
「ははぁっ!」
歯ぎしりしながら怒り狂った董卓は、捜索網を雒陽城外にも号令して曹操を捕らえようとした。
「曹操め。やはり袁紹と裏でつるんでいたのかっ。袁術も怪しいもんだな。奴への監視も強化しておけっ」
「その曹操の逃亡を最初に報せたのが、袁将軍の使いの者でした」
「ふんっ、そうか……。だが一応、袁術の監視も続けろ」
李儒は静かに頷いた。董卓は恐怖心を植え付け、良心の呵責に苛まれる李儒を巧みに利用した。
王允は有能で従順だが、その心根までは掴めない。かつては宦官相手に喧嘩を売った男だ。年老いたとはいえ、警戒を怠ることはできない。
だが、李儒のような罪悪感に苦しむ小心者なら、脅しあげておけば扱いが簡単だ。
そして袁術も自分に媚を売る小心者だと、董卓には映った。上手く手懐けておけば役立つと。
予期せぬ形で袁術の陰謀に巻き込まれた曹操は、卞蓮と共の縁者数人を連れて東に下り、 成皋県へと落ち延びた。
成皋県は古来より関所が設けられており、係争地としての歴史がある。かつては虎牢と呼ばれた、旋門という関所がある。
その付近に曹操が頼りとする人物がいた。姓を呂、字を伯奢と言う者だ。
一族から輩出した高位の宦官を持つという共通点から、祖父の代は親交があった。この頃は、度重なる戦乱や政変などで少し疎遠となっていた。
残念ながら呂伯奢は留守で、その息子と思わしき若者が門前にて応対した。
「せっかくお訪ね頂いたのに申し訳ありませんが、父は留守にしておられます」
「一晩でいいんです。休息する為の庇を貸して頂ければ何もいりません。お願い致します」
呂伯奢の邸に押しかけるようにやってきた曹操は、何とかして呂伯奢の邸に匿ってもらおうと懇願した。曹操はともかく、卞蓮や縁者の疲労困憊が重なっていたのを懸念した。
「わかりました。父の客人とあらば、お断りする事はできません。一晩だけなら空いている部屋をお貸ししましょう」
呂伯奢には成人した息子が五人おり、さらに食客を二十人近くもの傭っていた。
邸の使用人もその倍の人数がおり、皆一緒に邸内の敷地で暮らしている。
「かたじけない。この恩は必ずやお返しいたします」
曹操がお尋ね者である事を知ってか知らずか、呂伯奢の息子達は曹操の一行を受け入れた。
呂伯奢はこの辺りでは名家で通っている。いち早く何かしらの情報を掴んでいる可能性もある。
(考えすぎか――。だが、用心するに越したことはない――)
彼らがあまりにも優しいが故に、曹操はかえって疑心暗鬼に囚われた。
疑い始めると何もかもが態とらしく思えてくるものだ。疑念を払うため、曹操は休息せずに部屋の外を彷徨いた。
(今さらジタバタしたところで仕方ないか――、ん?)
ガシャン――、ガシャン――。
何やら金属がぶつかるような音がどこからともなく耳についてきた。
音の鳴る方へと廊下を伝って奥の部屋へと歩いて行く。すると部屋の中から人の話す声が聞こた。
「孟徳どのは董卓という西涼の将軍を殺そうとしたらしいな」
「ああ。しかし仕損じてしまい、敵軍の中を切り抜けてここまで逃げて来たとか」
やはり、呂家の縁者も曹操が指名手配中なのを知っている。雒陽を出奔して二日しか過ぎていないが、既に成皋県まで曹操の情報が流布していたのか。
それにしても、自分が董卓を暗殺未遂犯という噂が立つとは。何時の世も噂につく尾ひれは大袈裟になる。
(こやつらは信用できん――。夜のうちに静かに出ていこう――)
廊下で聞き耳を立てていた曹操は、静かに自分の部屋に戻ろうとした……その時、鉄が鳴るような音が聞こえてきた。
(ガシャ――、ガシャン――)
「じゃあ、そろそろヤルか」
「ああ、一気に力強く急所を突けよ。そうすれば簡単に息の根を止められる」
曹操はその言葉と鉄製の武器が鳴る音を聞いて背筋が凍った。と同時に、頭に血が上るのを止められなかった。
(俺達を油断させ、殺してから董卓に売り渡す気か――そうはさせん!)
扉を蹴破って部屋に飛び込んだ曹操は、静かに抜刀して部屋にいた者達へ躍りかかった。
「あ、何か御用でも……うあっ」
「ぎゃああ――!」
即座に二人の者を斬り倒し、曹操は気勢を張り上げる。
「この俺を嵌めようとは、いい度胸だっ」
部屋の中には十人ほど男がおり、何人かは刃物を手に握って臨戦態勢となった。
「言っている意味が……、ひぃいっ」
曹操は、武器を持っている者達に、見境なく襲い掛かり斬り倒した。
「問答無用!」
武器を持ってない者も、身の危険を感じて武器を持つと、その途端に曹操に斬り伏せられた。
まるで手負いの虎の如く襲い掛かる曹操を前に、部屋にいた八人が斬り殺された。
「なぜこんな事をするのですかっ」
泣き叫びながら理由を問う者の声で、ようやく曹操は正気を取り戻した。
(なぜ、だと――。はっ、ここは――)
辺りをよく見ると、この部屋が炊事場である事に気付いた。いわゆる厨だったのだ。
さらによく見ると、茶色の大きな獣が天上から吊り下げられ虫の息になっている。
首の辺りから血を流す獣は、猪だった。それを見て曹操はようやく理解した。
ガシャガシャ鳴っていたのは食器の音で、息の根を止めると言うのは料理に使う猪の事であり、彼らが手にしていたのは武器ではなく包丁だった。
台所にいた者達は曹操を饗す為の料理を作ろうとしていたのだ。
曹操は逃避行の疲れから極度の疑心暗鬼に襲われ、自分らが殺されると勘違いしてしまったのだ。
(しまった――)
大きな物音と叫び声に満ちた騒ぎを聞きつけ、呂家の息子らも急いでその場に駆け付けた。
「孟徳どのっ、これは何の真似ですか!」
「いや、これは……。すまないっ」
息子らに責められたことで、自責の念が湧き上がる。
曹操にとって幸いだったのは、殺した者の中に呂伯奢の息子達が含まれていなかった事だ。
「すまないで済むと思っているのかっ。こんな残虐な仕打ちがあるかっ。一宿一飯の恩義を、仇で返すのか!」
そこにもう一人、騒ぎを聞きつけて駆け付けた者がいる。曹操の愛妾である卞蓮だ。
「ご主人さまっ」
「蓮っ、こっちに来るな!」
曹操の怒鳴り声に、卞蓮は部屋の手前で立ち止まった。中が大惨事になっている事、そしてその原因が彼である事をすぐに理解した。
「聞いてくれ……。俺たちは一昼夜眠らず歩き続け疲労困憊だった。そのせいか、疑心暗鬼に陥っていたのだ。給仕の者を殺したのは、事故だったのだ……。仕方なかった。この不始末の詫びは後日する。今は大人しく去るので見逃してくれ。頼むっ」
「これだけの者たちを殺しておいて。見逃してくれだと? 虫が良すぎるぞっ。このまま無事に帰れると思うのか!」
呂伯奢の息子らは怒り、今にも襲いかかろうという気構えで怒声を放っている。
「勝手を言って悪いが、ここで死ぬ訳にはいかんのだ。見逃してもらえないというのなら、返り討ちにするしかない……」
すでに辺りは血の海で、舞台は出来上がっている。血に塗れた剣を持つ曹操の言葉は、呂家の息子らを震え上がらせ、戦意を喪失させるに十分だった。
「くっ、くそっ。今は見逃してやるから、早く出て行け!」
血走った目で睥睨する曹操の前に、選択肢などあろうはずもなかった。
曹操は手に持っていた分だけの金銭を地に置いて行った。せめてもの餞別のつもりだった。
ほんの束の間の休息ですらなかったが、曹操の一行は真夜中の逃避行へ再び舞い戻った。