第十五話 銭唐
銭唐は現在の浙江省杭州市で、年に数回、杭州湾から河川に水が逆流する海嘯現象で有名な、銭唐(銭塘)江という大河がある。
海嘯の影響で水害が多かったが、漢代に大規模な治水工事が行われてからは、重要な海運都市となった。
ちなみに銭唐の名の由来は、役人が民衆に土を持ってくれば銭を渡すと触れ、土を持ってこさせたが、渡す銭がない事を知った民衆は土を投げ捨てて帰った。
そこが堤防となり、治水工事に一役買ったというのが、銭唐の名前の由来という。また曲がりくねった川であった為に浙(折)江とも呼ばれた。
張世平と蘇双の二人は、強行軍なみの旅程をこなしたおかげで、ほんの数日間で銭唐に辿り着いた。杭州湾に面した港には多くの船が停船しており、商人や猟師がせわしそうに行き交っている。
銭唐に着いて二、三日は海賊に関する情報収集に励んだが、それらしい情報を掴めずにいた。
最初は、江南の方言をよく理解できなかったが、学識のある張世平は次第に会話の内容を理解していった。
連日の様に港の付近を彷徨いていると、言い合いになっている若い男女に出くわした。
「姉貴、なんでやねん! そんな訳の判らん賤しい男に、なんで姉貴が嫁がなアカンねん?」
「ウチが嫁がな、ウチら呉家の者に何されるかワカラへん、って親戚が言うてるやろ。もう何日かしたら来るんやから」
「そやかて、そんな男に嫁いだら、姉貴の身に何があるかワカラへんで? オトンとオカンも浮かばれへんがな」
別に聞き耳を立てるつもりではなかったが、あまりの声の大きさに、つい聞き入ってしまっていた世平。
「世平殿、子供の痴話喧嘩など聞いてる場合ではありません。先に行きましょう」
と、蘇双が張世平に注意していると、口喧嘩している若い姉弟らしき男女の、弟の方がこちらに気付いた。
「あれ、道士さんとちゃうか?」
明らかに張世平を見て道士だと言っている。移動時の服装はあくまで庶民が着ている平服だ。
「阿景! アンタ、誰と話しとんねん。道士さんって……」
姉から阿景(景ちゃん)と呼ばれた男は、世平を道士だと信じて疑わない。
「なぁ、アンタ、道士さんやろ。このアホ姉貴を説得してくれへんか?」
蘇双がイラつきながら三人の間に割って入る。
「この人は道士じゃありません。私達は急いでいるので。さようなら」
「待て、士然」
世平は左腕を伸ばして蘇双を軽く制止させた。
「私は張世平という者だ。旅をしながら修行をしている。それにしても、キミは何故、私が道士だとわかったのかね?」
「やっぱり、道士さんかい。何でわかったか……いうたらやな、アンタのその顔や。そのゴツゴツした顔、どえらい修行したからやろ?」
張世平は自分の顔をゆっくりと触りながら、次第に笑顔になった。
「そうかね、この顔が。珍しい顔だろう。で、何を揉めていたのかね?」
「せっかく急いで来たのに……」
小声で愚痴たれた蘇双は、呆れ顔で首を振って違う方を向いてしまう。
「ワイは呉 光脩って者や。ここで一族と一緒に暮らしとる。姉貴はワイの事を阿景って呼ぶんや。それはともかくやな、ウチの姉貴が海賊の嫁になるいうてるんや。ワケわからへんやろ?」
「なにっ、海賊?」
海賊という言葉に反応し、驚く世平。呉景の姉が話に割って入った。
「何を言うてんねんな。孫文台は海賊とちゃうで。一応、商売みたいな事やってる言う話や。ま、ホンマかは知らんけどな」
「どう見てもアイツはカタギのモンやない。あの男は悪そうな輩を引き連れとる。海賊と変わらへんで」
「せやかて、今度は自分の親父を連れて挨拶に来るって、文台が言うとったで。賊が自分のオトンなんか連れて来んやろ」
彼の姉は、孫文台という男に対して悪い印象は無いらしい。
孫文台に興味が湧いてきた張世平は、顔を突っ込みたがる癖が出てきた。
「ここら辺の海賊はよく出没するのかい? その孫文台って男は海賊と何か係わりがあるのか? できれば、孫文台という者と話をしてみたい。彼はこの銭唐にくるのかい?」
姉を説得する為とはいえ、苦し紛れに話しかけた行きずりの道士だ。彼が予想外の協力を申し出た事に、呉景は少し戸惑っている。
「ホンマかいな。いくら何でも、さっき会うたばかりのアンタに、そこまで頼むつもりは無いで」
「実は、海賊について知りたい事情があってな。先ほど、もう何日かでこの銭唐に来ると言っていたが、孫文台はどこから来るんだ?」
「確か、富春県から来るて。この海岸沿いを西南に下れば、銭唐江って曲がりくねったデカい川につながっとる。そこを上流に向かって行けばええ。せやけど、何のアテも無しに行っても、どうもならんのとちゃうか? 顔も知らへんのに」
「いやいや、それより、阿景。何の関係もない爺ちゃんに頼み事したらアカンやろ」
またも呉(景)光脩の姉が勢い良く話に割って入る。どうも南方の女性は北方に比べて、元気で活発そうだ。
「おい、姉貴ぃ、聞いてへんかったんか? 爺ちゃんが行きたいって言うてるんやから、別にええやんけ。なんなららワイも付いてったるがな。文台の顔はハッキリ憶えとる。銭唐に入ってくる前に追い返したろやないかい」
「一緒に来てもらえるなら、これほど有り難いことは無い。早速、文台という男が来る銭唐江の方に向かおう」
孫文台が海賊と係わりがあるかなど判らない。しかし、何らかの手掛かりが得られるかもしれない。始めて訪れた土地で、地元の人間に道案内してもらえれば幸運だ。
「なに考えとんねん。文台の申し出を無碍に断ったら将来に禍根を残す事になんで。ように考えぇや」
と呉景の姉は反対している様子である。
「む。とにかくな、姉貴に合わせる前にもう一回ヤツと話がしたいんや。オレらの一族にとって悪いようにはせえへんから」
張世平も先を急ぎたかったので「私が何とか話をつけてみましょう」と呉景の姉を説得して、呉景と一緒に出発する事になった。
船で向かおうという呉景の申し出を断って、馬で出発する。不慣れな船に乗るのは嫌だったからだ。
海賊も河川に侵入してくるというのなら、杭州湾の奥にある浙江(銭唐江)を進めば手がかりを掴めるかもしれない。
呉景と蘇双ら一行を伴って銭唐江の川沿いを伝って西に進んでいった。
銭唐江に沿って進み始めてから数十里の所で、川の真ん中の大きな中州に、数隻の船が停泊しているのが見えた。遠くからでも人々が騒然としているのが判る。
それを見た張世平は、馬を飛ばして一人で走り始めた。
中州で何かが起こっている。蘇双は、またか……後ろから見ていた。張世平の無茶ぶりには慣れていた。
「道士さん!」
呉景はて呼び止めたが無駄だった。
蘇双と顔を見合わせた後で「くそっ」と言いながら、張世平の後を少し遅れて馬で飛ばし始めた。




