第一三三話 鷹狩
曹操は故郷の沛国譙県で平穏な日々を送っていた。春から夏は読書をして過ごし、若い従兄弟や親族たちには農耕に従事させた。
未開地の耕作に関しては、多くの者が武辺者だったので、陰で不満を漏らしていた。夏侯惇が率先して農作業に従事したので、従兄弟たちは渋々ながらも追従した。
曹操が農耕に注目し推奨したのには理由がある。
戦乱や自然災害が続く中、農地を放棄する地主が続出していたのだ。当然、食料需給率は減って飢饉が慢性化し、さらに人口が減るという悪循環が続いた。
戦線で兵糧を確保する為、兵に農耕従事させる事を屯田というが、曹操は従弟たちに平時でも農耕従事をさせた。
「今日も畑仕事かぁ……。こんなの張り合いがないぜ」
「これは必要な事だ、妙才。お前達に覚えてもらうためにやっている。まぁ、収穫が終わるまでの辛抱だ」
かなり後の話になるが、夏侯淵は曹操の麾下において行督軍校尉に任命されている。
兵糧を管轄し、確実な兵站を築き、速やかに戦地に兵糧を輸送する重要な役割だ。夏侯淵は、その兵糧の重要さを曹操から学んでいるのだ。
「収穫を終えれば、臂鷹(鷹狩り)をやるぞっ」
秋から冬にかけては、鷹狩りなどの狩猟を積極的に行い、寒い中でも好んで体を動かした。農作業を嫌った武辺者たちも、鷹狩りには率先して参加し楽しんだ。
中平四年、まだ秋が終わって間もないというのに、チラホラと雪が降り始めた冬の始め、譙県城外の平原で、鷹狩の最中だった曹操の耳下に朗報が入った。
「アニキ! ついに生まれたぞっ! 赤子は男だってよ! 今さっき伝令から入ったばかりの、最近で一番の朗報だぜ!」
男子の出生の知らせを伝えに来たのは、夏侯惇の伝令である。伝令から伝え聞いた夏侯惇は馬を駆って走っていき、颯爽と馬を駆る曹操に後ろから近づいていった。
「臂鷹に集中しろっ。獲物に逃げられるぞ」
鷹狩りは、野生の鷹を狩るのではない。狩猟の為に訓練した鷹を空に放ち、鷹をうまく利用して小動物などの獲物を狩るのが特徴である。
鷹匠という鷹を扱う者と、勢子という十数人の追い込む者たちと役割がある。
鷹匠が獲物に向けて鷹を先導し、勢子らが四方八方で待ち構え、一気呵成に獲物を追いたてて捕らえる。
「よしっ、左翼から先に攻めたてろっ」
曹操は自分の三男が誕生したというのに、知らせを聞いて喜ぶ様子もなく鷹狩を続けている。馬を駆りながら、分厚い牛皮で覆った右腕に鷹を乗せて走る。中原では右腕に乗せるのが習わしだ。
鷹狩で重要なのは、数人で徒党を組む勢子との連携である。狩猟の方式は実際の戦闘に通ずるもので、その為に曹操は自分の部曲を勢子として、競って鷹狩を行わせているのだ。
曹操の従弟達も馬を駆り、勢子の頭としてそれぞれが五人を率い、野兎を追い込んでいく。
父方の従兄弟である夏侯惇、夏侯淵、祖父の一族である曹洪、曹仁などの従弟たちが勢子の部隊の長として馬を狩り、戦場さながらの様相を呈す。
ある時は横一線に、またある時は扇のように囲い込む。まるで部隊を操っているかの如く、整然と機敏な動きを見せた。
「よしっ、鷹を放つぞ!」
曹操は右腕を掲げて鷹を空へ放った。羽を大きく広げ地面と平行に舞った鷹が向かう先は、草むらに追い込こまれて一目散に逃げ出す野兎だ。
鷹は羽ばたきながら、鋭利な爪を開いて近づいていく。野兎の背に迫ると、容赦なく獲物を掴み、地面に押し付けた。野兎は鷹の足元でしばらく暴れるが、すぐに動かなくなった。
勢子の部隊からは歓声が沸き起こり、曹操は右手を掲げて皆の労をねぎらった。
「兄上っ、やりましたな!」
「兄上、お見事!」
「兄上!」
皆それぞれが曹操のためなら死をも厭わないほど敬服している。曹操は年少の頃より彼らを可愛がり面倒をみてやっていた。
「それじゃ帰って酒宴を開こうじゃないか、子考。先に帰ってあの酒を用意しておいてくれ」
一番年少だった曹仁は、字を子考という。祖父曹騰の兄で潁川太守だった曹褒の孫だ。曹操とは十三も歳が離れている。
曹仁は腕の立つ猛者で、曹操が幼少から面倒を見てくれた事に恩義を感じ、千人ほどの若者を連れて馳せ参じた。
ともかく、鷹狩りを終えると決まって曹操の邸宅で酒宴を催した。
「さぁさぁ、この酒を飲んでくれ。こいつは極上の酒だぞ。南陽の製法で作った酒だ」
気さくな曹操の気配りに感謝し、遠慮がちに飲む者もいたが、曹洪は気にせずグイと一杯飲み干した。
「ぷは~~! こりゃぁ濃いなぁ。しかも、口当たりが良くて飲み易い。こんな美味い酒は初めてだぜっ」
忌憚ない曹洪の飲みっぷりを見て、曹操は微笑みながらもう一杯注いでやった。
曹洪は、かつて衛将軍だった曹瑜の族子だ。一族は資産家で、その為か曹洪は我侭な性格だった。
曹操には忠実で惜しみ無い援助をするが、それ以外は一族の者であろうと金銭の貸し借りを一切断っていた。
「美味いだろう。子廉。俺が頓丘の県令だった頃、前県令の郭芝という男がいてな。南陽の出身で、いつも美味い酒を持ち歩いてた。九醞春酒法という技法で作った酒で、自邸で従者に作らせていたそうだ」
後に曹操は九醞春酒法を、後漢最後の皇帝、献帝に上奏している。
麹を九回発酵させるというこの製法は、日本酒の製法に影響を与えたとする説もある。
皆もこの酒を大いに気に入って、嬉々として煽った。曹操はかなりの酒豪で、泥酔しても往々にして陽気であった。
「鷹狩もいいが、俺は矢で獲物を射る方が得意だな。畑仕事は勘弁してほしいがな、ガハハハ」
「妙才、またそれか。お前が弓が得意なのはわかったよ。だが、農耕も重要な仕事だぞ。腹が減っては戦が出来ない。長期戦において重要なのは兵糧なんだ」
「んなこたぁ分かってんだよ、元譲。まぁ、飲めよ、ホラっ」
夏侯惇と夏侯淵は従兄弟だが、兄弟のように仲良くまた顔も性格もよく似ていた。
「ひっく……。あ、そういやなんか、大事な事を忘れていたような。ま、いいか」
泥酔していた夏侯惇は、曹操の三男が生まれたという報告を皆にするのを忘れてしまっていた。だが、曹操はどんなに酒を飲もうとその事を忘れていた訳ではない。
三男が生まれたのはもちろん嬉しいのだが、正室と側室の確執を考えると憂鬱な気持ちになるのだ。
正室は名門の丁家より嫁いだ丁夫人である。美人で気立てがよく物怖じしない性格で非常に愛情深かった。
自分の子供には恵まれなかったが、夭折した前正室である劉夫人の三人の遺児たちを自分の子供のように愛情をかけて育てている。
曹操は十ヶ月前の宴会で、卞蓮という歌妓(踊り子)に一目惚れをした。彼女の舞う姿は華麗で天女の如く、その美貌を一層彩っていた。
演舞が終わると卞蓮を自室に招き入れ、宝物を与えようとした。
「先ほどの妖艶な舞に心を奪われたよ。細やかだが受け取って欲しい」
卞蓮は宝物の中から中庸な首飾りを一つ選び、長く細い首に掛けた。
「一つで良いのか」
「はい」
「何故これを選んだのかね」
曹操は白く透き通った細首の首飾りに触れながら尋ねた。
「華美な物を選べば貪欲、安物を選べば見せかけの慎ましさ、と思われるかと。だから中くらいの物を選びました」
「正直だな」
卞蓮の飾り気のない答えが堪らなく愛しく思えた。曹操は衝動を抑えきれず、一夜を共にした。
それからすぐ身篭った卞蓮は、曹操の側室として招き入れられた。
丁夫人の機嫌は頗る悪かったが卞蓮は努めて丁夫人に謙り、赤子を生む時でさえ譙県の県城外に家を建ててもらい、そこでひっそりと出産した。
曹操は皆が寝静まった後、産後間もない卞蓮の部屋に訪れた。
眠っている卞蓮と生まれたばかりの赤子を月明かりの中で静かに見守った。すると卞蓮が目を覚ました。
「来てくださったのですね。可愛いでしょう、この子。名を授けて下さいませんか」
「名は決めてある。丕にしようと思ってな」
丕には、大きく立派という意味がある。その日の夜、曹操は黄色い龍が現れる夢を見た。
かつて橋玄から譙県に黄龍が現れたという話を聞いた事があったが、これは何かの前兆なのだろうか?




