第一三二話 大空の矢
「わかってくれたんだな、玄徳さん。ん? げぇ!」
劉備は熊手の柄を振り上げて、陳英の左顔面にぶち込んだ。
「いでぇ!」
「ああ、わかったよ。俺が賄賂を出せば全て丸く収まるって訳だ。なぁ、英。すっかりお役所仕事が板についたなぁ、このボケっ」
逃げ道を劉備の手下に囲まれて、しゃがみ込む陳英。情け容赦ない猛連打で、熊手の柄を陳英に何度も叩き込む劉備。
「雲長アニィ、止ねぇのか? いつも弱い者イジメはいけねぇ、つってるべや」
「俺は、官位や権力を傘に威張ってる奴は許せねえ。弱い者イジメとは違う」
関羽は目下の者を可愛がるが、目上の者に対して劉備以外は決して心服しない。逆に張飛は目下の者に容赦ないが、権力や官位などの肩書に弱い所がある。
故に関羽は、劉備の暴力を止めるつもりはない。
「てめぇ、この野郎!」
「ひっ、勘弁してくださいっ!」
かれこれ、二、三十発は殴っている。突然、ビュン! という風切り音が空を裂き、劉備は振り上げた手を止めた。
気が付くと、手にあったハズの熊手が劉備の手にない。横を見ると、熊手が矢で打ち抜かれ壁に串刺しになっている。
そして反対に振り返ると、遠くにある門の入り口から、大弓を構えている男がいるではないか。あんな遠くから劉備の手にあった熊手の柄を、矢で狙い撃ちしたというのか。
「こりゃあ、何のマネだっ」
こんな凄まじい射撃が出来るのは子義だけだ。精密な射撃を見て驚いた様子もなく、劉備は只々怒りの収まりがつかない。関羽はそれを察して張飛に言った。
「狙ってやったとしたら、とんでも無い神技だ。動いてる物をあの距離から正確に射抜くとは。だが、我が主君に弓を向けた事は許し難い。益徳、アイツを斬って捨てろ」
普段から子義を庇っていた関羽も、劉備の危機に関しては敏感だ。
「まてよ、雲長アニキィ。子義は大兄を狙って射た訳じゃねえべ?」
子義が矢を放ったのは、劉備を諌める為だ。劉備も皆も分かっている。だが関羽は、子義の行為を認める訳にいかなかった。
「処罰するかどうかは俺が決める。とにかく子義をこっちへ連れて来い、益徳」
「え? いや、連れてこなぐても、こっちさ向かって来てる」
「ようし。陳が逃げないように見張ってろ」
劉備は人集りを掻き分けて少し前に出た。子義は走ってこちらに向かってくる。関羽と張飛はすぐに劉備の左右についた。
「目をかけてやってたのに、俺に矢を放つとはな。子義っ、どういうつもりだっ!」
劉備の抑え難い怒りは、今や子義一人に向かっている。子義もそうなることを承知で、劉備に向けて矢を射たのだ。
「私の矢は決して的を外しません。恩人である貴方だからこそ、お助けしたかったのです」
子義の言葉に、劉備はもとより関羽や張飛も唖然とした。子義の神技のような射撃と、その想いに。督郵を殺すのは劉備の為にならない、と言うのだ。
「大兄、オイラも子義の言葉に嘘偽りねぇと思います」
張飛の言葉を聞いた劉備と関羽は、視線を合わせ互いの心を探った。関羽が無言で頷くと、劉備は目を瞑って頷き、そして子義の両眼をじっと見た。
「助けてもらったのは俺の方か。確かにそうかもしれん……が、もう後戻りは出来ない。雲長よ、アレをくれ」
「はい」
関羽は腰に着けていた小さな布袋の中から、印綬を取り出した。黄色の綬(組紐)に結び付けられた銅の印、これは官員に授けられる下位の印綬である。
「それを陳英の首に掛けろ」
関羽は頷くと陳英に近寄り、失神している血まみれの陳英を、片手で引き摺り起こした。胸ぐらを掴み、近くの壁に押し付けて立たせ、銅印の黄綬を陳英の首にかけた。
それは官職を捨て去ると意味である。
陳英は虫の息であったが、すぐ手当すれば命に別状はない。関羽は胸ぐらから手を離すと、陳英は涙を流しながらゆっくりと壁伝いに沈んでいった。
「大兄、すぐに去りましょう。長居は無用です」
関羽は子義を睨みながら劉備に促した。劉備も静かに頷き、集まった部下たちに向かって話し始めた。
「皆、聞いてくれ。見ての通り、県尉の印綬を返上した。言っておくが、御上に逆らおうとか、楯突くつもりは更々ない。コイツは若い頃一緒によくつるんだが、偉いご身分になると俺を裏切りやがった。俺達は賊になるつもりねぇが、侠の精神だけは忘れちゃいけねぇ! 漢に仕える義侠の士だ。田舎で三年も温々と暮らしてきたが、西も東も賊の反乱だらけだときてやがる。時代は乱世だってのに、こんな所で燻っちゃいられねえ。お前たちも腕が鳴って仕方ねえだろ? いいか、ついて来たい奴だけ俺と来い。涿県に帰りたいヤツぁ好きにしろ。俺は中原を目指す。どうだ、てめぇら」
話を聞いて静まり返っているが、皆の決意は固まっていた。それぞれがお互いの目を見て頷き合った。
「大兄。どうやら、皆ついて行きたいようです。ただ、子義だけは連れていけません。いや、ここで制裁を加えておくべきです」
関羽はまた子義を睨みつけた。劉備に向かって矢を射たのが、許せないのだ。
「待ってけれ、雲長アニイ。それなら、オイラにやらせてけれ。ケリ付けっからよ」
張飛が自慢の長身な蛇矛を引っさげ、子義の眼前に立ちはだかった。
「益徳、お前では……」
関羽が物申そうとすると、透かさず劉備が促した。
「雲長よ。益徳の好きにさせてやれ。益徳がソイツの面倒を見てやってたんだ。俺はさっき射られた事を何とも思っちゃいねえ」
関羽と張飛が視線を合わせて頷くのを見た子義は、数歩下がり張飛の眉間を目掛けて大弓を構えた。
「問答無用という訳ですか。出来れば貴方と戦いたくはありません」
「こうなっちまったら仕方ねぇ。その弓でオイラを射ってこい。外せば死ぬぞ」
張飛から凄まじい闘気を感じる。弓を射るにしてはかなりの至近距離だ。張飛が一歩踏み込んで撃てば蛇矛の穂先が子義の心臓に届くほどの距離である。
子義の放つ矢が外れる事は無い。張飛の蛇矛も確実に子義の急所を貫く。
凍てつくような静寂が辺りの空気を支配した。動こうにも動けない圧迫感が、二人を通して皆に伝わっていく。
静寂を破って子義が動いた。すると、狙っていた張飛の眉間から的を外し、大空に向かって矢を射た。
「なに?」
張飛も皆も思わず、空に突き抜けた矢の行き先を見た。矢は勢いを失速させて頂点に達すると、急な放物線を描き、鏃を地に向けて真っ逆さまに落ちる。
なんと矢は、陳英の眼前の地面に突き刺さり、ヒィと声を上げてひっくり返った。
陳英は皆が子義に気を取られている間に、気付かれぬよう四つん這いでその場を去ろうとしていたのだ。
「あの野郎、逃げようとしていたのか。それにしても、あんな射ち方で的確に的に当てるとは。本当に神技だな。出来れば私の手元に置いておきたいが……」
劉備は惜しんだが、子義は弓を背中に仕舞うと、皆に深々と一礼をして背を向けた。
「子義っ、おめぇ、どこにいこうってんだ」
張飛も構えを解いて子義に問うた。子義は背を向けたまま首だけ少し後方に向けた。
「北に行きます。この世の果てまで行くつもりです。劉県尉、益徳さん、そして皆さん。懇意にしてくれてありがとうございました。この御恩は決して忘れません」
皆が唖然とする中、子義は素早く馬に乗ると、颯爽と北へ向かって走った。
関羽も張飛も、後を追おうとはしなかった。
「あくまでも、大兄に背を向けて行くか……」
「許してやれ、雲長。確かに、俺は子義に救われたのかもしれん。さぁ、グズグズしてはいられねぇ。すぐにでも出発するぞ」
こうして劉備は安喜県の尉を辞職し、再び流浪の徒となり荒野を彷徨う事となる。彼の部曲たちに不満や不安はなく、寧ろ活き活きとした表情を取り戻したかのようでもあった。




