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三国志創生伝 ~砂塵の彼方に~  作者: 菊屋新之助
第十二章  追奔逐北
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第一三二話  大空の矢

「わかってくれたんだな、玄徳さん。ん? げぇ!」


 劉備は熊手の柄を振り上げて、陳英の左顔面にぶち込んだ。


「いでぇ!」


「ああ、わかったよ。俺が賄賂を出せば全て丸く収まるって訳だ。なぁ、英。すっかりお役所仕事が板についたなぁ、このボケっ」


 逃げ道を劉備の手下に囲まれて、しゃがみ込む陳英。情け容赦ない猛連打で、熊手の柄を陳英に何度も叩き込む劉備。


「雲長アニィ、止ねぇのか? いつも弱い者イジメはいけねぇ、つってるべや」


「俺は、官位や権力を傘に威張ってる奴は許せねえ。弱い者イジメとは違う」


 関羽は目下の者を可愛がるが、目上の者に対して劉備以外は決して心服しない。逆に張飛は目下の者に容赦ないが、権力や官位などの肩書に弱い所がある。


 故に関羽は、劉備の暴力を止めるつもりはない。


「てめぇ、この野郎!」


「ひっ、勘弁してくださいっ!」


 かれこれ、二、三十発は殴っている。突然、ビュン! という風切り音が空を裂き、劉備は振り上げた手を止めた。


 気が付くと、手にあったハズの熊手が劉備の手にない。横を見ると、熊手が矢で打ち抜かれ壁に串刺しになっている。


 そして反対に振り返ると、遠くにある門の入り口から、大弓を構えている男がいるではないか。あんな遠くから劉備の手にあった熊手の柄を、矢で狙い撃ちしたというのか。


「こりゃあ、何のマネだっ」


 こんな凄まじい射撃が出来るのは子義だけだ。精密な射撃を見て驚いた様子もなく、劉備は只々怒りの収まりがつかない。関羽はそれを察して張飛に言った。


「狙ってやったとしたら、とんでも無い神技だ。動いてる物をあの距離から正確に射抜くとは。だが、我が主君に弓を向けた事は許し難い。益徳、アイツを斬って捨てろ」


 普段から子義を庇っていた関羽も、劉備の危機に関しては敏感だ。


「まてよ、雲長アニキィ。子義は大兄を狙って射た訳じゃねえべ?」


 子義が矢を放ったのは、劉備を諌める為だ。劉備も皆も分かっている。だが関羽は、子義の行為を認める訳にいかなかった。


「処罰するかどうかは俺が決める。とにかく子義をこっちへ連れて来い、益徳」


「え? いや、連れてこなぐても、こっちさ向かって来てる」


「ようし。陳が逃げないように見張ってろ」


 劉備は人集りを掻き分けて少し前に出た。子義は走ってこちらに向かってくる。関羽と張飛はすぐに劉備の左右についた。


「目をかけてやってたのに、俺に矢を放つとはな。子義っ、どういうつもりだっ!」


 劉備の抑え難い怒りは、今や()()一人に向かっている。子義もそうなることを承知で、劉備に向けて矢を射たのだ。


「私の矢は決して的を外しません。恩人である貴方だからこそ、お助けしたかったのです」


 子義の言葉に、劉備はもとより関羽や張飛も唖然とした。子義の神技のような射撃と、その想いに。督郵を殺すのは劉備の為にならない、と言うのだ。


「大兄、オイラも子義の言葉に嘘偽りねぇと思います」


 張飛の言葉を聞いた劉備と関羽は、視線を合わせ互いの心を探った。関羽が無言で頷くと、劉備は目を瞑って頷き、そして子義の両眼をじっと見た。


「助けてもらったのは俺の方か。確かにそうかもしれん……が、もう後戻りは出来ない。雲長よ、アレをくれ」


「はい」


 関羽は腰に着けていた小さな布袋の中から、印綬を取り出した。黄色の(じゅ)(組紐)に結び付けられた銅の印、これは官員に授けられる下位の印綬である。


「それを陳英の首に掛けろ」


 関羽は頷くと陳英に近寄り、失神している血まみれの陳英を、片手で引き摺り起こした。胸ぐらを掴み、近くの壁に押し付けて立たせ、銅印の黄綬を陳英の首にかけた。


それは官職を捨て去ると意味である。


 陳英は虫の息であったが、すぐ手当すれば命に別状はない。関羽は胸ぐらから手を離すと、陳英は涙を流しながらゆっくりと壁伝いに沈んでいった。


「大兄、すぐに去りましょう。長居は無用です」


 関羽は子義を睨みながら劉備に促した。劉備も静かに頷き、集まった部下たちに向かって話し始めた。


「皆、聞いてくれ。見ての通り、県尉の印綬を返上した。言っておくが、御上に逆らおうとか、楯突くつもりは更々ない。コイツは若い頃一緒によくつるんだが、偉いご身分になると俺を裏切りやがった。俺達は賊になるつもりねぇが、侠の精神だけは忘れちゃいけねぇ! 漢に仕える義侠の士だ。田舎で三年も温々と暮らしてきたが、西も東も賊の反乱だらけだときてやがる。時代は乱世だってのに、こんな所で燻っちゃいられねえ。お前たちも腕が鳴って仕方ねえだろ? いいか、ついて来たい奴だけ俺と来い。涿県に帰りたいヤツぁ好きにしろ。俺は中原を目指す。どうだ、てめぇら」


 話を聞いて静まり返っているが、皆の決意は固まっていた。それぞれがお互いの目を見て頷き合った。


「大兄。どうやら、皆ついて行きたいようです。ただ、子義だけは連れていけません。いや、ここで制裁を加えておくべきです」


 関羽はまた子義を睨みつけた。劉備に向かって矢を射たのが、許せないのだ。


「待ってけれ、雲長アニイ。それなら、オイラにやらせてけれ。ケリ付けっからよ」


 張飛が自慢の長身な蛇矛を引っさげ、子義の眼前に立ちはだかった。


「益徳、お前では……」


 関羽が物申そうとすると、透かさず劉備が促した。


「雲長よ。益徳の好きにさせてやれ。益徳がソイツの面倒を見てやってたんだ。俺はさっき射られた事を何とも思っちゃいねえ」


 関羽と張飛が視線を合わせて頷くのを見た子義は、数歩下がり張飛の眉間を目掛けて大弓を構えた。


「問答無用という訳ですか。出来れば貴方と戦いたくはありません」


「こうなっちまったら仕方ねぇ。その弓でオイラを射ってこい。外せば死ぬぞ」


 張飛から凄まじい闘気を感じる。弓を射るにしてはかなりの至近距離だ。張飛が一歩踏み込んで撃てば蛇矛(だぼう)の穂先が子義の心臓に届くほどの距離である。


 子義の放つ矢が外れる事は無い。張飛の蛇矛も確実に子義の急所を貫く。


 凍てつくような静寂が辺りの空気を支配した。動こうにも動けない圧迫感が、二人を通して皆に伝わっていく。


 静寂を破って子義が動いた。すると、狙っていた張飛の眉間から的を外し、大空に向かって矢を射た。


「なに?」


 張飛も皆も思わず、空に突き抜けた矢の行き先を見た。矢は勢いを失速させて頂点に達すると、急な放物線を描き、(やじり)を地に向けて真っ逆さまに落ちる。


 なんと矢は、陳英の眼前の地面に突き刺さり、ヒィと声を上げてひっくり返った。


 陳英は皆が子義に気を取られている間に、気付かれぬよう四つん這いでその場を去ろうとしていたのだ。


「あの野郎、逃げようとしていたのか。それにしても、あんな射ち方で的確に的に当てるとは。本当に神技だな。出来れば私の手元に置いておきたいが……」


 劉備は惜しんだが、子義は弓を背中に仕舞うと、皆に深々と一礼をして背を向けた。


「子義っ、おめぇ、どこにいこうってんだ」


 張飛も構えを解いて子義に問うた。子義は背を向けたまま首だけ少し後方に向けた。


「北に行きます。この世の果てまで行くつもりです。劉県尉、益徳さん、そして皆さん。懇意にしてくれてありがとうございました。この御恩は決して忘れません」


 皆が唖然とする中、子義は素早く馬に乗ると、颯爽と北へ向かって走った。


 関羽も張飛も、後を追おうとはしなかった。


「あくまでも、大兄に背を向けて行くか……」


「許してやれ、雲長。確かに、俺は子義に救われたのかもしれん。さぁ、グズグズしてはいられねぇ。すぐにでも出発するぞ」


 こうして劉備は安喜県の尉を辞職し、再び流浪の徒となり荒野を彷徨う事となる。彼の部曲たちに不満や不安はなく、寧ろ活き活きとした表情を取り戻したかのようでもあった。

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