第一三一話 督郵
翌日から、子義は張飛の猛特訓を受けることになった。
まずは槍術の扱い方。基本的な槍術の動作は関羽から習った。商売人の息子で財もあった関羽は、武術を若かりし頃より習得していた。
そして、馬術は関羽より一日の長がある張飛より教えを受けた。
武芸全般でもそうだが、張飛は野生の勘ともいうべき直感力と、並外れた腕力で馬を制している。並の人間では彼から教えを請うても理解できない。
だが、子義も同じ類の野生的な勘が冴えており、見る見るうちに張飛の我流の荒技を身につけた。半年も経つ頃には自慢の長弓を馬上で扱えるまでに至った。
となると、打鞠でも子義は活躍の場を得ていく。僅か半年での目覚ましい成長に、張飛や関羽のみならず、一歩引いた目線で見ていた劉備までもが、子義の日進月歩の成長に関心を持った。
特に素晴らしいのが子義の長い弦を活かした弓術で、百発百中の精度で的を居抜き、その貫通力も群を抜いた威力を見せた。なにより、矢を射る立ち姿が彫像のように美しかった。
そんな子義の成長を耳にした劉備は、太史慈という将来有望な青年を、正式に自分の幕下に招き入れた。だが、ここでまた事件が起こり大波乱を巻き起こす。
――先般、軍功に拠りて長吏(高官)と成りし者達につき、宜しく再吟味致すべし――
京師からの詔勅が届いたのはちょうどその頃だった。
黄巾賊討伐の戦功で官職を得た者達を対象として人事を刷新する、という内容だ。
刷新とは名ばかりで、劉備のような草の根から成り上がった者の官位を剥奪し、郷里に返すのが目的の詔勅だ。
劉備は憤った。命を賭けて戦った報いがこれなのか。少ない禄で部下を養う日々……そして今、県尉の地位まで失くすのか。
「なんで今になってこんな詔勅なんぞ出しやがるんだ」
劉備のやるせない問いかけに答えたのは田予であった。
「伝え聞いた話よると、一昨年に京師の南宮で大規模な火災があったんだと。だども、その修理費を捻出するのにまた税を上げたわけでさ」
確かに去年、全国の田地から一畝(約百平方メートル)ごとに、十銭をて徴税する御触があったのは劉備もよくわかっている。
「けっ、それで俺達みてぇな成り上がりの者から、官職を外してクビにしようって話だ」
実際、黄巾賊討伐に参加した者の多くが、劉備たちのような侠客集団で、戦功を得て官職に就いた者がかなりの数に登っていた。
大規模な人減らしで、最初に槍玉に挙がったのがそういった類の者たちだ。今回の辞令でほとんどが免職される。
儒学を収めた識者か、高官の血縁か地縁でもなければ、官職を剥奪されるのだ。
「黄巾の乱で中止していた売官制度も復活だってよ。西園の万金堂(巨大な金庫)にせっせと民衆の血税を貯めこんでんだろ」
劉備は喜怒哀楽を出さない質だが、最近は苛立ちを隠しきれない。
詔勅が届いた数日後、督郵が安喜県へ査察に来た。督郵とは、郡から派遣される監察官だ。
やってきた督郵は、陳英という。偶然にも、劉備が盧植の門下生だった頃、緱氏県で一緒に学んだ仲だ。
劉備は、昔の好で失職を免れると期待していた。だが、陳英は劉備との面会を拒絶した。理由は病気、有りがちな理由だ。
「陳の野郎、ナメやがって。何が督郵だっ、ブチのめしてやるっ」
久しぶりに雨になりそうな曇り空の日だった。督郵が居着いている県令の住居に乗り込んでひと暴れしようと、劉備は自分の部曲を集めた。
「待てよ、大兄っ。旧友だか手下だか知らねぇけんど、督郵をぶっ飛ばして大丈夫か?」
修羅場が似合いの張飛だが、暴力沙汰になるのを心配している。失職するのを憂慮しているのだ。
「益徳、だからなんだ? 相手が督郵だろうが関係ねぇ。陳英の野郎には貸しがあるんだ。昔はあのノロマを何度も助けてやった。そのツケを今から払ってもらうぜ」
劉備は打鞠用の長い熊手を手に、鼻息を荒くした。張飛はうろたえて関羽に助言を求めた。
「おい、雲長アニキは大兄を止める気ねえだか? 憲和、国譲、おめえらも止めろよ」
関羽の目には迷いはない。まるでこの機会を待ち望んでいたかのようにも見える。
「大兄がやるっていうんなら、私はどこまでも着いて行きますよ」
簡雍と田予は黙っているが、劉備がやるというならついて行くだろう。
「そ、そりゃあ、オイラだって大兄についてくに決まってるべや。でも、督郵を殺っちまったら、オイラたちゃあ、お尋ね者だべ?」
張飛がそう言うのは、まだ踏ん切りがつかないからだ。
「お尋ね者か、そいつあ結構だ。中原じゃ未だにあちこちで賊の反乱が起こっている。中原だけじゃねぇ、東西南北あらゆる場所だ。こんな時代、俺たちみてぇな部曲は引く手数多だぜ? おめえらを食わせるだけの俸禄すらねぇ。ひもじい思いしてまでド田舎で燻ぶってる場合じゃねぇ。だから、陳を血祭りにあげて、新しい門出の祝いに捧げてやる!」
劉備が拳を天に掲げると、皆も一斉に勝鬨の声を高らかに唱和した。
「よおし、てめぇら行くぞ!」
劉備は部曲を連れて県令の住居を目指した。その途中で子義も彼らに合流した。
「益徳さん……一体、どうしたっていうんですか。みんな血相を変えて、熊手を担いでましたけど」
「おう、子義か。今から県令の家に乗り込んで、督郵をぶっ殺すんだと」
「陳督郵が何をしたっていうんですか」
「アニキが会いてえっつったのを、断ったんだと」
「そんな理由で……。止めないんですか?」
「兄貴の言うことは絶対だ!俺にはどうにもできねぇ……」
やはり張飛は乗り気ではない。子義からすれば、正気なのは張飛だけに思える。
劉備を筆頭に、まるで狂気に駆られたように目を血走らせた集団が、県令の住居の門前に集まった。
面向きは県令の住居にて療養中という事だが、要するに県令もグルになって劉備の免官を推しているのだ。
劉備一党が門前までやってきたと聞いた県令は、慌てふためき一目散に裏口から逃げ出した。
督郵の陳英は、劉備が門前に迫っているのも知らず、悠長に酒を飲んでいた。門から一番奥の邸にいた事も情報が遅れた原因であろう。
騒ぎを聞きつけて邸宅に飛び出したのが運の尽き、陳英はほどなくして劉備の手下たちに捕縛されてすぐに劉備の眼前に晒された。
「陳督郵。久しぶりじゃありませんか」
陳英に対し慇懃な挨拶をする劉備。殺気立つ部下を背後に控えさせ、不敵な笑みで出迎える。この脅し方は若い頃と変わりない。
「ど、どうしたんだ? こんな所まで。久しぶりじゃないか、玄徳あにぃ、いや、劉県尉どの」
劉備は微笑んだかと思いきや、熊手の柄で陳英の肩を思いっきり叩いた。
「イデッ!」
「久しぶり、じゃあねえだろうが! 陳っ! てめぇ、俺の面会を断りやがったな。何様のつもりだ!」
「ひぃイイ! お、俺にだって立場ってもんが……」
劉備は陳英の胸ぐらを掴み、鼻がぶつかるほど引き寄せて言った。
「督郵だか何だか知らねぇがな、昔の事を忘れたとは言わせねぇぞっ。博打で負けて元締めに追われてた時の事を忘れたか? てめぇ好みの女を充てがってやったのを忘れたか。誰のお陰でその生命があったと思ってやがるっ」
「わ、忘れた事なんてねぇよ、だから今、その恩を返そうと思って」
「恩を返すだと? どうやってだ?」
「上納金だよ。どう足掻いたって、税は収めなきゃならないだろう?」
「税ならすでに納めてるぞ」
「だから、京師に送る上納金だよ。それを俺の顔に免じて、半額にしてやろうって事だ。それで玄徳さんの地位は安泰だ。どうだい、ここで手を打たないか?」
「そうか。そりゃあ有難い話だな。陳英、恩に着るぜ……」
劉備は陳英の胸ぐらから手を離すと、乱れた服を整えてやりニッコリと微笑んで頷いた。




