第十二話 密約
「その通りだ。私は清廉潔白とは程遠い俗物よ。それどころか命惜しさに人々を裏切ってきたどうしようもない奴だ。貴様の言う通り、侯覧とその一族を葬ってくれるなら、そんな有り難い事はない」
「だろう?」
「地位の確約……その条件を飲もう。太平道の教えに順ずるというのなら……」
「ずいぶんと物分かりが良くなったようだね。私のような宦官と手を組むなど、昔のお前なら考えられない事だろうがね」
侯覧をこの世から消しされるなら……、張倹はそう割り切って交渉する事に決めた。
「私ごときの口約束で貴様の地位が保証されるのか?」
「いいんだよ。すでに話はついているんだ。ただ、君の血判状が必要なだけさ。それだけで、太平道が中華を平定した暁には、私の地位は揺ぎ無いものと確約して貰う。そのように大賢良師、張角との話がついているんだ」
「何故に私の血判状など。本当に大賢良師がそんな事を言ったのか?」
「信じてもらわなくても結構だ。血判状があればそれでいい。少し教えておいてやるが、君のように在野に下った清流の徒が、太平道の信徒になったり、地下で手を組み密かに協力者となっている者も多くいる。そして、その多くは私の故郷である潁川に多くの清流派がいたからね。清流派の聖地と言われた潁川ですら、宿敵である我ら官者に泣きついてくる者も少なくなかった」
二度あった党錮の禁、いわゆる、宦官と清流派政治家との権力争いによる一方的な宦官の勝利。
宦官先帝の時代にあった一度目の党錮に比べ、今上皇帝の治世時に起った二度目の党錮は多くの血が流れた粛清の嵐だった。
「清流派の中でも君のような大物が、漢室を裏切って太平道に入信するのは珍しい。潁川の清流派を取り込むには私の力が必要なのだ。そこで清流派の大物である君が私を認めれば、大賢良師も信用してくれる、という算段だ」
「貴様も大賢良師も、私を買い被りすぎだ。私は人を裏切り陥れ、私を助けてくれた一族さえ破滅に追いやってしまった」
項垂れる張倹の肩を叩き、張譲は耳元で囁いた。
「フンっ、お前の贖罪に興味はない。いますぐ血判状を書きたまえ」
一人だけ残しておいた兵士に、張譲が目配せをした。すると兵士はするりと剣を抜き、椅子と張倹を縛っていた太い縄を剣の一振り一閃で断ち切り、張倹の身を解き放った。
そして、兵士は剣を再びゆっくりと振り上げて張倹の顔の前にかざした。
「さぁ、その剣先で指先を切り、血判を押すのだ。そして約定も書いてもらおうか」
張譲は目の前の机に置いてあった、絹の生地でできた簡帛を広げて、張倹を睨んだ。
「わかった……」
手を剣にあててから親指を少し切り、その簡帛に血の血判状を書く張倹。
もはや、彼の中にあった小さな自尊心すら粉々に砕かれ、ただ張譲に言われるがままに書いた。
それは、大賢良師・張角の兄弟に次ぐ地位を確約する内容である。
張譲は血判状を蝋の熱でよく乾かしながら、指先の血を拭く為の布切れを、張倹に渡して拭かせた。
「それでは、これを大賢良師様に届けて、彼の約束を取り付けてもらおう」
張譲は血判状を兵士に渡して、彼を地下室から地上の出口に行かせた。
「あの兵士は信用できるのか? この事が明るみに出たら貴様も無事では済むまい」
「彼は生まれつき耳が聞こえん。文字の読み書きもわずかしか出来ん。だから人に喋る事はしないし漏らす事もない。もっとも口の堅い奴さ」
「さすがに用意がいいな」
「そうだとも。これを見てみろ」
手燭を張譲自身の頭上に掲げて、蝋の灯火が照らす微かな光を部屋全体に広げて見せた。
よく見ると、この狭い部屋に黄老道の祭壇があり、中黄太乙の像が祀られてある。
「こう見えて私も信心深いのだよ。口から出任せではないのさ。まぁ、これを表沙汰にすると腐れ儒者共に槍玉に上げられてしまうからね」
「なるほど」
張倹は一息ついた所で気になる事を思い出した。先ほどこの邸宅内に賊が入ったというのに、落ち着いてこんな地下室で話してる場合ではないハズだ。
「そういば、さっきの賊、若い青年だったな。ワザと逃がしてやった様にも見えたが」
「ああ、あれは先帝時代の大長秋の孫だ。」
先帝の桓帝時代の大長秋。三十年の間に四人の皇帝に使えた最高位の宦官、曹騰の事である。
また、先帝を擁立した功績で費亭侯の爵位を与えられ、宦官として人臣を極めた人物が曹騰なのである。
この時代は宦官に養子を取る事が認められていたので、曹騰も養子を取り、血の繋がりのない孫がいたのだ。
「大長秋の曹候か」
曹騰という人物は不思議なもので、濁流派である宦官らだけでなく、清流派である士大夫(豪族)からも慕われていた。
すでに老年だったせいか、先帝が崩御する数年前から体調を崩し、政界からは遠のいていた。張倹の逃亡中に逝去したという噂は耳にしていた。
「しかし、なんで彼の孫が……この邸宅に忍び込んだりした?」
「さぁね、いろいろあるんだよ。まぁ、気にするほどの事でもない」
何か奥歯に物が詰まった言い方だが、張倹もそれ以上の事は聞かなかった。
「そうだ、君にはもうひとつ面白い話をしてあげよう」
「面白い話?」
「ああ、そうだ。かつて、大賢良師、いや張角は、安世高に秘密裏に師事していた事もあったのだよ」
「安世高? あの西域から来たという浮屠の訳経僧か」
浮屠……とは仏陀の当て字で、仏教を指す言葉であった。そして訳経僧とは仏典を翻訳する僧の事である。
後漢の後半から仏教の流入が民衆に広まりつつある時代でもあった。安世高は多くの仏典を漢訳している高僧であった。
「ほう。さすがに良く知っているね。そうだよ、安息国の王子だったとかほざいている、あの安世高だ」
「どういう事だ?その浮屠に大賢良師が師事していただと?」
「張角が安世高に師事したのはほんの少しだけらしい。彼が浮屠の教えを乞うたのは卓越した浮屠の組織形態を黄老道に取り入れる為だ。張角が于吉という真人から得た、という太平清領書も浮屠の経典から着想を得てこしらえた物だ。もちろん、それはそれで素晴らしい書物ではあるが、于吉から得たなどという話は、箔を付ける為の作り話に過ぎない。だが、彼の書いた書だからこそ太平道は目覚しい進化を遂げ、多くの民衆を従える事が出来た」
「信じられん……」
「信じられぬのも無理はない。この事実を知ってるのは、私を含めて数人しかいないのだからね」
「何故そんな事を私に話すのだ?」
「君には知っておいて欲しかったのだよ。漢を裏切って太平の道を選んだ君にね。張角もたいそう君を気に入っているようだね」
いちいち癇に障る喋り方をする張譲の口から出た「裏切り」という言葉に、張倹は電撃のような痛みを胸の辺りで感じて声が出なかった。
「……」
「今は、数年前に月氏(西北王朝)からこの都に来た、支婁迦讖という訳経僧についての情報を知りたがっているそうだ」
張倹はただただ張譲の話を聞いているしかなかった。
「今の所、白馬寺にいて訳経をしている事くらいしか、彼についての情報は報告するほどの事もないのだがね。とはいえ、安世高にも劣らない高潔で正統な訳経僧だという話だ。揚州の南方では浮屠の俗派が伝播しているとも聞くが、そういうのとは比べ物にならないね。いらぬ話が長くなったが、張角が欲しいのは要するにこれだ」
張譲が持ち出してきたのは、紙という素材に書かれた数冊からなる仏教の経典であった。
「これは蔡候紙と呼ばれているのだが、我ら宦官が誇る蔡候が作ったと言われている」
蔡候とはこの時代より七十年近く前に製紙方法を編み出したとされている蔡倫の事である。
前漢の時代から紙はあったが執筆に適しておらず、蔡倫という宦官によって実用的な紙が開発されて朝廷に献上された。
木管や竹簡に変わる新しい媒体であるが、一般に普及するのはそれからさらに一世紀の時代を要する事になる。
「貴重な蔡候紙による……貴重な浮屠の訳経典だ。張角が喉から手が出るほどに欲しい物だろう。これを君の手で彼の元に届けてほしいのだ」
「浮屠の訳経典ならすでに大賢良師の手元にあるんじゃないのか」
「これは以前の書物とは違う。より正確に、より解り易く訳されてあるらしい。それに蔡候紙だからな」
「わからん……、先ほどの件といい、そんな大切な任務を何故この私にさせるんだ」
「君が思っているより、重要な任務ではないのかもね。この件はそんなに急ぐ必要もない。私はさっきの血判状もあるし、すでにそれなりの報酬をもらってる。まぁ、君の忠誠心を試す為の儀式なのかもしれんしな。さぁ、無駄話はこれくらいにして、もう行き給え。先ほどの内緒話の件は大賢良師には黙っておいてくれよ、フフフ」
消化しきれないほどの裏を知らされ、心を整理出来ないまま、張譲に地上まで案内されて外の光を浴びた。
その後は張譲の部下に邸宅の門前まで案内され、門からは一人で外へ出た。