第一〇四話 京観
冀州の鉅鹿郡広宗県では、漢軍と黄巾賊による最後の戦いが始まろうとしていた。
兗州東郡倉亭県の黄巾賊を討滅した皇甫嵩は、拙速をもって広宗県に向かった。
下曲陽郡で張角の弟たちに足止めを喰らい、何も出来なかった董卓に代わって、黄巾賊の本拠地を討伐するためだ。
盧植はその広宗の県城を陥落寸前まで追い込んだ。理不尽な更迭さえなければ、とっくに県城を落としていたであろう。
数ヶ月前、主将のいない冀州方面軍は、盧植の代わりに派遣された董卓の到着を待った。盧植の副官、宗員では代わりは務まらず、広宗の黄巾賊に蹴散らされて散軍した。
そんな経緯から、広宗は攻城戦になると予測したが、皇甫嵩が率いる方面軍の予想は見事に裏切られる。
県城に立て篭もっていた黄巾賊が、城外へ一斉に城外へ飛び出して、一大決戦を打って出たのだ。
これまでも各地での黄巾賊は籠城が苦手だったが、広宗は鉄壁の防御と最大の兵力を誇る彼らの本塁である。
黄巾賊が城外に討って出るのを予見したのは皇甫嵩だ。黄巾賊に再度籠城できるほどの備蓄はないと考えた。
ただ、黄巾賊の苛烈さ――最後の足掻きとも言える痛烈な反撃は、皇甫嵩の想定を超えていた。
広宗県に侵入した時点で、皇甫嵩は行軍を少し緩ませて慎重に進めたが、真正面からの黄巾賊の突撃に皇甫嵩の方面軍は面喰らった。
見渡す限りの平原が続く中、黄巾賊は凄まじい砂埃を巻き上げつつ、自軍の足下へ突進して来る。
猪突猛進してくる黄巾賊に対し、迎え撃つ体勢を整える為、行軍をやめて布陣を素早く敷いた。だが、体制を整える余裕はなかった。連戦連勝だった兵士達にも焦りの顔色が見え始めた。
浅く敷いた方面軍の陣営に、黄巾賊たちが黄色い雪崩のように襲いかかっってくる。この猛攻を凌ぎきれずに押され続けた。方面軍は数十里も後退せざるを得なくなってしまった。
但し、歴戦を勝ち抜いてきた皇甫嵩の軍である。甚大な被害を負ってもおかしくない所だが、素早く軍を分割させて後退し、最小限の被害で済ませた。
結果的には広宗県の端に追いやられたが、そこで陣営を立て直して黄巾賊の猛攻を防ぎきった。
黄巾賊も攻撃を収めて陣営を張り、皇甫嵩の方面軍に睨みを効かせている。これ以上、広宗県に入れさるつもりはない。
ここで数日間の膠着状態が続き、小競り合いは何度かあったが、事態を打開する進展はない。
「皆さん、焦る気持ちは分りますが、専守防衛に徹しましょう。必ずや勝機が巡ってくるに違いありません」
皇甫嵩は兵士を休ませて機会を待った。勝機の手掛かりがどこかにある筈だ。
今回の戦いは異様な雰囲気が漂っている。黄巾賊たちからは悲壮感が伝わってくるが、追い詰められた者の気概だけでは説明できない何かを感じる。
密偵を放ち黄巾賊の陣営を探らせてみると、広宗県内は不穏な噂で持ち切りだとの情報を得た。
黄巾賊の首領張角が病死した、という噂だ。賊兵たちが張角の死を知れば、精神的な影響力は計り知れない。だが、狂信的な信徒たちは張角の不滅を信じて疑わない。
皇甫嵩は敵の動揺を誘う為、張角が既に没し直隠しされている……と黄巾賊の陣営に流言させた。
数日後には黄巾賊の陣営に動揺が広がっているとの情報を得た。時期を得たり、と皇甫嵩は読んだ。
夜陰に乗じて先鋒の兵士を黄巾賊の陣営の付近まで潜ませ、鶏が鳴き始める早朝に突撃した。
この作戦は驚くほどの功を奏し、朝日が登り切って辺りが明るくなる頃には、黄巾賊の陣営は大混乱に陥っていた。
陣中に火を放ち銅鑼を激しく打ち鳴らし、残りの全軍を持って黄巾賊の陣営を蹂躙した。
戦いは日が落ちるまで激しく続いたが、皇甫嵩は一日で黄巾賊の本塁を陥落させた。指揮を執っていた張梁は乱戦の中で討たれ、三万人近くもの賊が戦死した。
近くの河に約五万人の賊たちが逃げ込んだが、ほとんどが逃げきれずに溺死した。荷車など三万台が焼かれ、辛くも生き延びた者達は広宗の県城に逃げ込んでいった。
皇甫嵩の方面軍はその勢いを駆って、広宗県城に逃げた残党を殲滅し、県城にいた女や子供を捕虜とし、その数は数十万にも及んだ。
広宗県を制圧すると早速、病死した張角の遺体を捜索した。例え死体であろうと首を刎ねて、公衆の面前に晒さねばならない。
城内は籠城戦に備えて改築された痕跡がある。どこか殺伐とした雰囲気が漂っていて、華美な建築物は見当たらないが、その中でも一番大きくて宮城らしき建物の地下に張角の遺体が眠っていた。
よほど急いでいたのか、太平道の指導者の遺体を安置するには、不釣り合いなほど質素で淡白な墓室だった。
地下の墓室は『地宮』と呼ばれ、その上には石と炭を積み、その外側を全て環らせている。
地味だが質の良い木材で作られた棺桶の中は黒い液体で満たされており、張角の遺体の状態は非常に良好であった。
腐敗する事無く生前と変わらぬ姿である。 液体からは芳醇な香が漂ってくる。腐敗防止の為の液であろうが、その成分は不明だ
皇甫嵩自身もこの地宮での査察に立ち会い、張角の遺体である事を確認した。早速、張角の首を刎ねて塩漬けにし、すぐ雒陽に送り届けた。
張角の首は皇帝の面前に通された後、雒陽城の外で木に吊るされ晒された。
だが、これで黄巾賊の反乱が終息したのではない。この鉅鹿郡の最北端にある下曲陽県の城に張角の末弟である張宝の軍が、まだ十万の規模で駐屯しているのだ。
董卓が足止めを喰らって為す術もなく、職権を剥奪されて帰還したという曰く付きの県だ。
皇甫嵩の率いる方面軍は、連戦連勝で気勢が強く、後退など微塵も考えていない。
下曲陽に付くと鉅鹿郡の太守である郭典が、唯一少ない軍勢で下曲陽の県城を包囲していた。
皇甫嵩の軍が到着すると郭典の軍は大いに士気が高まり、共同で下曲陽の県城を攻撃すること怒涛の如くであった。
盧植が広宗攻略の為に築いた雲梯(攻城戦用の巨大な梯子車)数台を下曲陽まで運搬し、大いに活躍させ勝利に貢献した。
結局、初戦の一日で県城を攻め落とし、最後の首領である張宝を斬り殺し、ようやく黄巾賊の乱は終息を迎えた。
今回の戦いだけでも十万人の賊が殺されて、下曲陽の県城内はさながら地獄と化した。
賊たちの首は城の南側の城壁に、山の様に積み上げられて、壁の高さに達するほどの山になった。
敵兵の死体で山や丘を築く事を、古来より京観と呼び、戦勝の記念として作る風習があった。
京観とは高い建物の意である。
山の如く積み上げられた首塚は、崩れないよう土で固められている。土の合間からは血に塗れた腕や足、顔、髪の毛が見え隠れしていた。
「京観……初めて見ました。死んで当然の賊とはいえ、無残ですな」
下曲陽で一緒に戦った郭典が漏らした言葉に、皇甫嵩は低い声で返した。
「この寒さでなければ、血腥い腐臭が辺り一面に漂っていた事でしょう。これを築くことが古来よりの戦勝の習わしであり、我々の最終任務なのです……」
皇甫嵩の表情に賊を憐れむような慈悲は感じられない。そして京観を前にして戦勝を祝うこともなかった。
後漢の末期には寒冷期が訪れていたとする説が現在では有力と見られている。気がつけば秋は風の如く吹き去り、すでに極寒の冬の時代が訪れていた。




