第一〇三話 子義
湯気が立ち込める羹には、数種類の野草が入っていた。その中には先ほど子義が貰ってきた薏苡仁(鳩麦)も入っていた。
後の時代には、七種菜羹という七草粥の原型とも言える羹を、一月七日に食べる風習があった。
「それにしても、大変でしたねぇ。行商の途中で黄巾賊に襲われるなんて」
「ええ、身ぐるみ剥がされましたが、命だけは助かりました。貴方たち親子のおかげです」
蘇双は行商人としての筋書きで状況を説明していたらしい。まさか元は太平道の信徒、いや、黄巾賊であったなどとは、口が裂けても言えぬ。
「それはそうと、爺さん。そのゴツゴツした顔は生まれつきなのかい?」
子義は親しげに世平に話しかけるが、子義の母はそれを許さなかった。
「子義っ。爺さんと呼ぶのはお止しなさい。世平殿という字があるですよ。それに、人様の顔のことを……。いつまで失礼な饒舌り口調を続けるのですか。改めなさい」
「ちぇっ、わかったよ。すまねぇ、世平さん」
説教された子義は不貞腐れたが、母には逆らえないようだ。
「子義よ、君は恩人だが、君の母上は立派なお方だ。母上の言う通りにするのが宜しい」
子義は素直に頷いてもう一度詫びた。そして子義の父について少しだけ語ってくれた。
彼の父も郡の官吏をしており、武術に優れ、馬術や弓術、剣術など、子義が幼き頃より教授されて育ったらしい。
だが彼の父は病で夭折したので、今は母一人子一人で暮らしているのだという。
「これだけお世話になっておきながら、お返しするものが無くて本当に申し訳ない。失礼ついでに今日あと一晩だけ泊めて頂いても宜しいでしょうか?」
食事を済ませると、世平は畏まって子義の母にお願いをした。
「何を仰いますか。そんな身体で旅に出るなどもっての他です。もう少し泊まっておゆきなさいな。私達の事は気にしなくても大丈夫だから」
子義の母の言葉に目頭が熱くなる世平。身体はすっかり良くなっていたし、石真の事も気がかりだった。やはり此処にはずっといられない。
「貴女の御心遣い本当に有難く存じます。しかし、我々は行かねばなりません。疲れた身体もこの美味しい食事のお陰で良くなりました。何もお返しできない事だけが唯一の心残りです。いつかこの御恩は必ず」
子義も彼らを引き留めようとしたが、世平と蘇双も意を同じくしており、今日一晩泊めてもらってから明日の朝に旅立つ事となった。
しかし、翌日の朝、出発しようと家を出た時の事である。見送りにと子義も一緒に数里ほど歩いていた。
すると黄県の県城の城壁にたくさん立て掛けられていた筈の黄色い旗が一つも無いのである。
「もしや……」
世平の呟きに蘇双も同じ予感が胸に去来した。二人は無言で県城に向かって走り始めた。子義も何事かと一緒に走りだす。
県城の近くにあった二人が雨宿りしていた木の下に行くと、閉ざされて黄巾賊しか入れなかった門が、大きく開かれて人々が行き交う日常的な風景が見えた。
「ここで待っていろと言っただろう」
振り返ると衛兵らしき男たちを数人連れた石真が立っているではないか。
「石真どの。まさかここでずっと私たちが来るのを待っておられたのですか?」
蘇双が驚いた顔で聞き返した。
「馬鹿な事を聞くな。城門の上から城外を見回していたら、お前達二人が走ってくるのが見えたから、この木の下に来ると思っただけだ。それにしてもお前たち、一体今までどこに行っていたのだ」
まるで世平と蘇双など眼中になかった、ここに来たのは偶然であるとでも言いたげだが、石真が二人を気にかけていたのは見え見えだ。
「この若い青年と、彼の母に助けて頂いておりました」
と、世平の右手にいる子義を紹介した。子義は石真に謙って挨拶した。彼は石真が太平道の人間、いや、世間でいう所の黄巾賊である、などとは夢にも思っていない。
事実、石真の格好は、以前の黄色い頭巾や腰巻きを纏った賊の姿ではない。官吏としての冠を被って正装しており、郡の役人にしか見えない。
石真は太平道の者として黄県城内に入り込んで、梁範という石真の元上司に味方のフリをして近づき、梁範を討ち取って政変を起こしたのだ。
それにしても、石真の正装した姿に世平も閉口した。黄巾の中でも一番の荒くれ者が、髭を綺麗に整えて冠を被り、涼しい笑顔を振りまいている。彼の部下も同じく正装をして静かに立っている。
世平は悟った。石真も世平と同じく漢の官吏だった。そしていつしか職を追われ、太平道に身を窶したのだろう。
子義がいる手前、石真に面と向かっては聞けない。蘇双も空気を読んだ。
「もしや、黄巾賊の渠帥を討ち取って、県城を取り戻されたのは貴方でございますか? さては州から派遣された討伐隊の将軍様では……」
若い子義は、また自分が仕官できる機会が巡ってきたのだと理解し、心踊っていた。
「将軍ではない。だが、暫定の県尉(軍事と警察の長官)に任命された。貴様は一体、何者だ?」
「私は子義という者です。以前に奏曹史として郡に仕官する事が決まっていたのですが、黄巾賊の反乱で有耶無耶になっておりました。本当にありがとうございます」
「世平さんよ、このデカいガキはなんなんだ? 馴れ馴れしく話しかけてきやがるぞ」
子義は少しムッとするが、世平は子義の肩を叩いて頷いた。
「張県尉、私は彼と彼の母親に救われたのです。あの日、この木の下で高熱に倒れていた所を助けて頂きました」
石真は世平の言葉を聞くと、態度を一変させて子義に一礼した。
「そうか、そんな事があったとは。では、俺からも礼を言わせてもらおう。この二人は俺にとって必要な人材だ。助けてもらって感謝する。それともう一つ、俺は劉石真だ。だから、劉県尉と呼んでくれ」
ぶっきら棒な物言いだが、石真からの感謝の言葉に、子義も満更ではない様子だ。
「劉……。姓を間違えるとは、大変失礼致した、劉県尉」
世平は張石真が違う姓を名乗っているのを知らなかった。賊が県尉に成りすますのだから、姓を変えて別人に成り済ますのは当然だ。
「とにかく、城中に入るがいい。詳しい話はそれからだ」
石真の招待を受けた世平と蘇双と子義の三人は、黄県の宮城まで案内され接待を受けた。その日の三人は賓客のような扱いだった。
数日後には子義は約束通り奏曹史として黄県に勤めるようになり、世平と蘇双は県尉である石真の下で雑務を行う副官、参謀的な役どころを補佐して欲しいと。
しかし、世平と蘇双は正式に官職に就いた訳ではない。世平が頑なに任官を拒否した。
石真も世平の境遇を理解したのか、無理強いしなかったが、黄県の治安が回復するまでは側について補佐して欲しい、と頼んだ。
黄県に訪れた平穏な日々の中で、世平はこれまでの経緯を石真から知る事になる。
彼はやはり世平と同じような境遇で漢室を見限り、太平道に入信したという経緯があった。
世平も石真も互いにその話について語り合おうとしなかった。特に世平にすれば蘇双には聞かれたくないとさえ思っていた。
そして石真は一度捨てた官吏の職を得る為、騙し討ちで太平道の方である梁範を討ち取り、黄県城を乗っ取ったのだった。




