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第二話

オールスターはどんな気持ちでマウンドに立ちましたか?


-マウンドに立つ時が1番緊張しましたね。地元だったので、ここに知り合いがいるのかと思うと変に気が張っちゃいました(笑)。


第二戦、唯一の無失点投手でした。


-前までのセのピッチャーが皆、球が速かったですからね、相手バッターがタイミングが合わせずらかっただけです。


さぞ教え子も喜んだことでしょう。


-三振にとった時に飛び跳ねて喜んでくれて、あぁプロに入って良かったなと思いました。


そうですか。プロ入りを決意したのにも生徒達には助けられたそうですが。


-夢を追いかける姿勢を自分で示しているうちに、いつの間にか後押しされてたって感じです。その後押しが無かったら僕が夢半ばで終わってましたね(笑)。


シーズン後半戦はどのようにしていきたいですか。


-奪三振王や最優秀防御率を狙うより、最多勝を狙ってチームの勝利に直結した結果を出せるような投球をしていきたいです。


7月31日 全国誌 週刊プロ野球

-田中道久インタビュー 一部抜粋




何もこんな日に発売しなくてもいいだろう。新幹線の中で田中は自分のインタビュー記事を読んだ後、簡易机の上に置いた。隣の席に座る近田(ちかだ)は球団のロゴが入ったナイロン製の上着を羽織って寝ていた。筋骨と脂肪で盛り上がった腕がパンパンに腫れ上がっている。


リーグ再開後の名古屋レックスとの第3戦、先発のマウンドに立った田中はいまいちピリッとしなかった。6回を8安打4失点で降板し、そのまま両チームだらだらと点数を取り合い8対5で敗戦。首位東京レイズとのゲーム差を2としていた前半戦から3連敗をして、ゲーム差は5となった。


締まらない試合をした後はどこか微睡(まどろ)んだ空気が流れる。サーディンスが貸し切った新幹線の中は群青色の疲れに溢れていた。


もう一度雑誌の表紙を見る。『元中学教師、オールスターへ』と大々的に躍り出ている文字が今は小さく見えた。


いや、それでもまだ7勝3敗。ローテーション投手でも4つ勝ち越しているのはサーディンスで田中だけだし、ルーキーでこの活躍は素直に褒められてもいいだろう。


サーディンスはチーム色として先発の投手がイマイチで、序盤にゲームが崩れたり、打ち合いになり中継ぎに勝ち星がつくのが他球団よりもずっと多い。そんな中、先発で9試合登板して7試合を7回以上投げた田中は抜群の安定感で、夏前でうだるチームを支えてきた。6月まで1位だったサーディンスが2位に落ちる因果となった梅雨の8連敗に終止符を打ったのも田中だった。


ただそれは前半戦の話であって、これからもその調子を維持できる保証はどこにも無い。後半戦には後半戦の戦いがある。そういう意味で、後半戦初登板の今日は最悪なスタートと言える。


「いぶかしい顔をしてんな」


通路側から声がかかり顔を上げると、サーディンス不動の3番打者、河内(かわうち)竜介(りゅうすけ)が前の席の背もたれに肘を置きながらニヤついていた。前の席は…多分21歳の中村だ。


「そりゃ敗戦投手なんだから笑う事ぁ無えだろ」

「辛い時でも笑っとかねえと、次に伸びねえぜ」


河内はより強くニヤついた。こいつはいつもそう、ニヤついた顔が真顔のような男だ。


「投手っていうのはな、バッターと違って次の場面まで時間が長いんだよ。切り替える時間が急には必要じゃ無い分、落ち込む時間も長いんだよ」

「そうかねえ」


河内が頭の後ろを掻いた。


「俺だって高校までピッチャーやってたけど、お前ほど負けてもクヨクヨして無かったぜ」


そりゃあんたは力任せの速球と落差のあるフォークで勝負するタイプの投手だったからだろ。喉まで出かけた言葉をグッと飲み込んだ。


河内は田中が3年生の時、西東京代表で甲子園に出場した。兵庫の無名校の投手だった田中が大金星続けで勝ち上がっている裏で、強豪の帝星高校のエースだった河内も155キロを記録して甲子園を賑わせた。


河内は当時から豪快な性格で、小さい事は気にしないといった男だ。プロ入り後に成績不振で打者転向を命じられた時も、プロでまだやれるならとあっさり引き受けた。元よりのポテンシャルの高さとその性格があいまって今までで1300本安打を記録している。


「いろいろ考える性格だからな」


遠回しに河内に嫌味を言った形になるが、当人は気づいてないようだった。大きく欠伸をした後、目に涙を溜める。


「なあ、喫煙室行こうぜ」


河内が喫煙室のある方を親指で指差す。


「俺は吸わねえぞ」

「俺が吸うんだよ」


よく通るバリトンの声で笑う。周りの選手が怪訝な顔をしながら振り向く。1番近くにいる近田だけがスースーと寝息を立てて眠っていた。


このままここで河内に大声で話されて、敗戦でピリついているメンバーが余計苛立っても困る。田中は渋々了解し、近田の太い脚を跨いで喫煙室へと向かった。選手の横を通る際、「敗戦投手が優雅に煙草なんか吸うのかよ」と言われてるような被害妄想に陥る。


喫煙室は真ん中に円形の灰皿と、扉の向かいに硬いソファがあるだけの簡易な作りだった。ソファに腰掛けて河内が来るのを待っていると、右手に例の雑誌を持ってやってきた。


「ちょっとお前の記事読ませてくれよ」


ニヤついた声で話す河内。了解とも拒否とも言わず無反応でいると、河内は表紙を1ページ、また1ページとめくりだした。読みながら口に煙草を咥え火をつける。口から吐き出された白い(もや)が天井へと登っていった。


「ずいぶんと優等生な事言ってるじゃねえか、さすが元教師って感じだな」

「ほとんどがデタラメだよ」

「ほう?」


河内が興味あり気に首を傾げる。チャームポイントの顎髭を優しくさすった。


「どの辺がデタラメなんだ?」

「パの連中がタイミングが合わずに運良く無失点で終われたなんて言ったけど、あれだけホームランしか狙ってねえ連中なんて俺のカモだよ」

「性格の悪い言い方をしますねえ」


河内が笑い声を上げる。息を吐く度に、肺に残った煙が途切れ途切れに吐き出された。


「教え子の姿も投げてる時は見えなかった。投げてる時に観客が気になるのは大阪戦だけだ」


大阪ライアンツのフランチャイズ、甲子園に訪れるファンは熱狂的だ。いや、狂人的と言ったほうが正しい。容赦の無い野次は、時々観客席めがけて速球を投げ込みたくなる。


「じゃあなんでこんな事言ったんだよ」

「…マスコミの連中が勝手に元教師だから紳士だみたいな印象つけやがったから、こう言うしか無えだろ。教え子達もこの雑誌を見たら喜ぶだろうと思ってな」

「ずいぶん腐った考えの教師だな」

「教師ってのは腐ってないとやってらんねえよ。お前みたいに素直に生きてる奴は速攻ノイローゼで辞めちまう」


「そうなのか?」とキョトンとした顔で聞く河内。筋肉で盛り上がった肩が呼吸をする度に浮き沈みしている。


「説教したら生徒からウザがられて、軽く殴っただけでも体罰だとか言って文句言い出す親。だからって優しくしすぎたら生徒から舐められて、授業崩壊。俺が8年間教師やっててノイローゼで辞めてった教師が何人いると思う?」

「さあ?」


田中は両手を大きく広げる。


「赴任先だけで10人だ。姫路市には40近く中学校があるから、10年近くで400人は辞めてる計算だ」


はえ〜と悲嘆する河内。もちろん全部の学校の教師10人が精神疾患になる訳では無い。教育ママが多かった赴任先が異常なだけだが、教師というのがいかに大変かを伝えるために少し吹聴した。


「だから素直な性格な人ほど苦しむんだよ。生徒に対しての顔、親に対しての顔、教員に対しての顔…3つ以上の顔を持たないとやっていけないんだ」

「ふーん、大変そうなんだな」


ふぅ、と大きな息を吐く。教師の世界をまるで異世界のように思い、さほどの興味を示していなかった。煙草の苦い薫りがついにここまで漂ってきた。


「お前はなんか問題になったことはあるのかよ」

「あるよ」


忘れられない。昨年の春、野球部の練習試合で1回7失点をしたピッチャーに喝を入れるために頬をぶった。ちょうど新学年の移り変わりで仕事が忙しかった時期だ、その時の部員の反抗的な目付きに無性に苛立ちもう一発殴った。


目の下に大きな(あざ)が出来てから気付いても遅かった。その日の晩に殴った部員の母親が学校に怒鳴り込み、校長と共に謝罪するまでに至った。挙げ句の果てには学校に報も入れずその母親が教育委員会にチクったらしく、田中は厳重注意を喰らった。


「慰謝料払えだの、土下座しろだの散々っぱら言われた」

「かーっ!それでどうしたんだよ」

「金を個人的に払うのは違法だから払わなかったけど、土下座はした」

「マジか?」


河内が目をギョッと開いてこちらを振り向いた。


「そんな事良く出来るな。俺だったら絶対にやだぜ」

「俺もアレが1番の屈辱だな」

「甲子園で負けた時より?」

「もちろん」


2人の間に笑いが零れる。思えばプロになってからこんな教師時代の話をしたのは初めてだ。性格は全く違う河内だが、全日本高校選抜(ジャパン)で知り合った頃から何かと付き合いがあるし、腹を割って話すことができる。違うからこそ自分に無い何かを補える存在なのだろうか。


「…話は戻るかも知れねえけど、あんま負けを気にする事は無いぜ。お前はサーディンスの勝ち頭なんだから」


そう言うと河内は粋に煙草をふかした。プロ選手はいつもそうだ、自分はかっこいいと思っている。何故か子供っぽくも見えるその様子を見て少し気持ちが和らいだ。


「ああ、少し気が楽になったよ」

「シーズンは長いようで短いぜ」


河内は田中のインタビュー記事が載っているページを田中に見せつけポンポンと一文を叩いた。


「チームのために最多勝を狙う、これはあながち嘘じゃないんだろ?」


ニヤつきながら見せつけてくる河内。田中は観念したような笑いを浮かべて「さあな」と呟いた。刹那、アナウンスで姫路に着くことを知らせる。


「お前の降りる駅じゃねえのか」

「そうだな」


選手の多くは自宅や寮を広島に構えているため、これ以降も山陽新幹線に沿って西へと消えていく。田中だけが、妻子の待つ姫路で降りるのだ。


「じゃあな」という挨拶を済ませ、敗戦投手は喫煙室を後にする。後ろから返事は返ってこなかった。


…田中の脳裏に小林の母の姿がまとわりつく。俺が人生で唯一土下座をした人物、その息子がもう危篤状態に差し掛かろうとしている。

ざまあみろと思うには、あまりにも残酷だった。




姫路駅を中央口から出ると、北に延びる通りの先に姫路城が見えた。白鷺城と評される姫路城は平成の大修理が終わり、白さにさらに磨きがかかっている。


田中は昔から姫路城のそばに住んでいたので世界遺産としてのありがたさはそこまで感じなかったが、それでも大阪城や、今朝見た名古屋城よりも荘厳さを感じさせられる。一枚一枚が確認してとれる程に大きな瓦に天守閣に堂々と構える鯱鉾(しゃちほこ)、ライトアップされた白壁はそのものが輝いているようにも見えた。


さて、どうしたものか。このまま歩いて西に向かえば菜穂の待つハイツに着くのだが何故だか真っ直ぐ帰る気にはならなかった。何かコーヒーでも啜ろうか?脳内に駅周辺のマップを表示し、お気に召す場所を探し出す。


…そうだ、飲み食いするところでは無いが、歩いて10分ぐらいの位置にバッティングセンターがあるじゃないか。野球で生まれた鬱憤は野球で払えばいい、それに今日は2打席に立って2三振だ。もとい投手なので気にする事は無いがそれでも(しゃく)に障る結果だ。妙に納得する理論を元に、田中は足を東に向けた。


「田中?」


突然背後から女性の声が聞こえた。ファンにしすぎては馴れ馴れしくて、教え子にしては大人びた声だ。


振り返ると夏だというのに長い髪の毛をした凛とした顔立ちの女性が立っていた。


「…広瀬?」


考えるよりも先に名前が出た。広瀬(ひろせ)美智子(みちこ)、俺が所属していた兵庫県立広畑高校野球部のマネージャーだった女だ。広瀬は頬をわずかに釣り上げ、興奮を抑えたような口調で話しかけてきた。


「覚えてくれてたのね」

「あたりまえだよ」


お前みたいな変わった女、忘れるわけが無い。尾ひれにつく言葉を口内で断ち切り、引きつった笑みを浮かべた。


「テレビで観てるわよ。凄いわね」


悪気のない口調から、今日の試合は観ていないという事を察しとる。田中は自嘲気味に今日の結果を言った。


「今日は6回4失点の大活躍で見事敗戦投手だよ」

「知ってる」


田中のブラックユーモアをバッサリ断ち切る。


「6回8安打、球数は102球。いつもよりも速球がキレて無かったわね。コントロールがウリの田中にしては四球(ファーボール)が4って結構多かったんじゃない?牽制ミスで金田を3塁にまで行かしたのは最悪だったわね」


機械のように精密に、そして冷酷に田中の戦績を語る広瀬をただ茫然と眺めているしか無かった。ビジネススーツに赤縁のメガネをしている彼女が球場に足を運んでいたとは思えない。ならどうして、俺の結果を知っているんだ…


「どうして知ってるんだって顔をしてるわね」

「もち」


田中は昔から言葉を略す癖がある。懐かしい田中の癖を聞いた広瀬は手を口にやり小さく笑った。照明を反射したレンズが一瞬の輝きを放つ。


「私はサンショウスポーツの野球部でジャーナリストをしてるのよ」


サンショウスポーツは産商新聞社の子会社で全国展開するスポーツ紙でナンバーワンの売り上げを誇る。広瀬はそこの花形部門である野球部で働いているというのだ。


「本当か?」

「ホントよ、どうして嘘をつかなきゃいけないの?」


やれやれといった笑みを浮かべながら広瀬は黒のバッグから名刺入れを取り出し、1枚だけ抜いて俺に差し出してきた。『サンショウスポーツ 広瀬美智子』、後ろには彼女の電話番号が書かれている。


「驚いた、お前がエリート企業にいるなんてな」

「伊達に慶応を出たんじゃないのよ」


広瀬は高校を卒業し、学力で慶応に進学した。広畑高校は市内1の進学校で、上位にいれば早慶や東大京大も叶わない夢では無い。田中もスポーツを使ってではあるが、早稲田に進学している。


「じゃあお前、名古屋戦観てたのか?」

「いいえ、今日は甲子園で大阪対横浜を観てたのよ。あなたの投球はノーパソで」


鞄の中に忍んでいる黒いノートパソコンが(いぶ)く光ったような気がした。パソコンの横には煩雑に詰められたメモの束がくしゃくしゃになっている。


「…大変なんだなエリート記者は」

「ええ、教師ぐらい大変じゃないかしら?」


こちらの皮肉を、さらに被せて返してきた。変わっていない。こいつは基本無口なのだが、こちらが話しかけると必ず嫌味な態度をとっていた。憎たらしいニヤつき顔が、どことなく河内に似ている。


「ねえ、ちょうど良いわ。今度空きがあるならインタビューしても良いかしら」

「何なら今でも良いぞ、今日は家に帰りたくないからな」

「…誘ってるの?」

「アホ、結婚してるんだよ」


2人は声を殺して笑った。広瀬が口を抑えた左手に指輪は無かった。


「まあ、そういうのは球団を通さないといけないから俺には何とも言えないけど、少し呑まないか?」


手で杓を作り一気に飲む。おじさん臭い表現をするなと思ったが、もう30なんだよな…


「プロなんだから奢ってくれるならね」

「おいおい、俺よりお前の方が給料良いんじゃないのか?」

「ええ、480万円の2倍ぐらいかしら」


田中は目を細めて首を(すぼ)めた。一般人だと30歳で1000万近く稼ぐには並以上の労力を惜しまないといけない。彼女は仕事の代償に自由の時間を差し出していたのだ。




姫路駅から繋がっているみゆき通りという商店街を少し行ったところに行きつけのしゃぶしゃぶ屋がある。小さなオフィスビルの2階に構える店はこじんまりとして薄暗く、時間が遅いのもあって客は2人しかいなかった。低い音で流れるジャズが優しく耳に入り込む。


鰹がベースのダシに、ニンニクを1つ落としただけの鍋にピンク色の肉を優しくゆすぐと、たちまち色は無色に近い色になる。ゴマだれを付けて一口で頬張る。柔らかい肉は体温で溶けるかのようにほろほろと崩れ、喉を滑り落ちた。


「美味い」

「そうね」

「昔は職員連中の宴会でよく来てたんだよ」


そう言うと田中はビールを勢い良く飲む。プロに入ってからは乙な酒も飲むようになったが、この店ではジョッキに入ったビールしか飲まないことにしていた。特に決まった理由は無く、何で?と聴かれても何となくとしか答えようがない。


「田中は随分と庶民的なのね」

「悪いか?美味い肉に辛口のビールは最高だぞ」

「これが食べ放題なら大学生みたい」


クスリと笑うと広瀬はオレンジブロッサムなるカクテルを一口。粒の残ったオレンジジュースの部分が下の層に沈んでいたが、全く気にしている様子は無かった。むしろそれが正しい飲み方であるような振る舞いをしている。


「しばらく会ってない内に、もっと遠い存在になっているかと思ったわ」


広瀬がグラスのフチを指でなぞる。関節部分はタコで少し膨れていた。


「会わなかったのはそっちだろう。同窓会とか野球部の会合に一回も顔を出さないし、全然近況を誰にも言ってないそうじゃないか」


田中の問いかけに広瀬は答えず、カクテルをまた一口飲んだ。傾ける際に邪魔になったサクランボを使っていない皿に除ける。


「忙しかったから、かな?」


広瀬はつけ合わせのサラダを頬張った。レタスに小エビを乗っけたサラダに和風ドレッシングをかけたいかにも女性好みなサラダだ。


「忙しくてもどこに就職したかぐらいは誰かに言えたんじゃないのか?みんな紅一点がどうなったのか気にしてたぞ」

「…気になるなら私に連絡を入れればいいんじゃない?」


私に、の部分だけ強調して広瀬が言う。瞳の中央は寂しさの黒に塗られていた。いきなりのトーンダウンに、田中は少し身構える。


「決勝戦」


意味ありげに単語だけ呟くと、広瀬はまたカクテルを口にする。透明なアルコール部分は全て飲みきり、オレンジ色の層しか残っていない。


「決勝戦、サヨナラヒットを打って皆が田中に集まった時覚えてる?」


その僅かな言葉だけで充分だった。

最後の夏、県大会決勝戦。同点で迎えた9回裏2アウト3塁、6番打者だった俺は相手投手が投げたフォークを見事すくい上げセンターに返した。湧き上がるスタンド、駆けつけてくるナイン。ヘルメットを叩かれた痛みと、耳障りな部員の歓喜の声は今でも身体に染み込んでいる。


「ああ」

「あの時、ベンチに残ったのは私と監督だけだったの。涙が出そうなぐらい嬉しかったけど、どうしてか一歩も前に歩けなかったの」


ガラスを割ったような衝撃が走る。言葉を出そうと思っても、脳内で文が整わない。彼女が言いたいことが、じわりじわりと昔の俺を責めたてる。


「それと、甲子園準決勝。負けて皆が泣いて土を集めている時。私が何をしてたか知ってる?」


心臓の鼓動が早くなる。仲間として3年間一緒に居た広瀬がその時何をしていたか、見当がつかない。黙ったまま鍋を見つめていると広瀬は口を開いた。


「涙で視界がぼやけて、悔しさで指が震えながら、スコアブックの大野君の5打席目にSO(スイングアウト)って書いてたの」


広瀬の瞳から涙が零れる。頬を伝って顔から離れた雫はグラスの中に入り、オレンジの液体の上に被さった。


「もちろん、田中達が悪いわけじゃないよ。でも、部員皆が同じ事をして気持ちを共有してた時、私だけが1人違うことをしてたのがどれだけ寂しかったかわかる?」


言葉が出ない。広瀬の白い肌が涙で濡れてるのを見て、心臓を素手で握られたように痛む。彼女が抱えていた12年来の想いが、大人になって襲いかかってくる。


「そこから私は、野球部だけど野球部じゃないような気持ちになって。大学に行ってから、あえて皆から遠のいたのよ。もし私を仲間だと思っているなら、誰かが気にかけてくれるだろうななんて期待しちゃって」

「広瀬…」

「そうしたらね、今日さっきまで誰も私が記者やってるって知らなかったの。私が声をかけて、私が言うまでは」

「広瀬、違うんだ」

「結局私は、雑用係としてしか思われてなかったんだって、ようやく分かったわ」

「違う!」


大声が出てしまう。厨房で皿洗いをしている音が秒針の動く間に止まった。


「…皆お前には感謝してたし、仲間だと思ってた。ただ、大学に入ると個人個人忙しくなったし、就職するとそれ以上に忙しくなって他人にかける余裕なんて無かったんだ。それはお前に対してだけじゃない、皆が皆、距離は離れてしまっていたんだよ」


言葉が上手くまとまらず、繋ぎ繋ぎに発する。気づくと箸を置いていて、前のめりになっていた。


「嘘よ」


広瀬から発せられた言葉は予想の範疇を大きく越えていたので思わず口をポカンと開けてしまった。広瀬は頬をつたる涙を拭って眼鏡を机の上に置くと、優しい笑顔を浮かべた。


(いま)田中が言った通りよ。私が皆に連絡できなかったのは本当に忙しかっただけ。大学は勉強で、仕事は仕事で忙しすぎて高校の同級生に連絡できないままずるずる時間が経っただけよ」


広瀬の瞳からもう涙は流れてこない。作り話だからと俺をなだめるが、どうしても作り話には思えない。度数の強いお酒のお陰で現れた本当の広瀬美智子が、数分だけ覗いていた気がする。


しばらく無言でしゃぶしゃぶをよそっていると、広瀬が口を開いた。


「…でも、田中は変わったわね。関西弁が抜けたのもそうだけど、昔は私に優しい言葉とか慰めなんてしたことなかったじゃない」


眼鏡を再度掛け直し微笑む広瀬。レンズは光を反射して、本当の瞳は覗けなかった。


「昔は若かったからな…。もう少し俺が優しかったら、大学生になっても付き合ったままだったか」

「さあね、それは当時の私に聞いてみて」


乾いた笑いが生まれる。僅かな時間だけ起きた劇的な出来事は、田中の心の底に大きく爪痕を残した。

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