第一話
いやぁ、プロ野球に同じシーズンは2度と訪れないと言われても、それでもマンネリ気味になる時代がありますよ。
え?それがいつかって?嫌だなぁ記者さん、あなたも気付いているじゃないですか(笑)。ここ5年間、日本シリーズを東京レイズと千葉ドルフィンズしか出場していない。これじゃあ関西の人間が野球を見ててもつまらないですよ。
それに野球ファンっていうのはワガママです。贔屓のチームが勝ちすぎても面白くない。暗黒期と呼ばれる時期に散々野次を飛ばし、それでもチームを信じ続けて、最後に勝つ。これがファンにとっての醍醐味です。これに言えばレイズファンもドルフィンズファンも、昨年までのプロ野球には飽きを感じていたはずです。
しかしそれも去年までだ。今年は一味も、二味も違う。相模原の怪童と、元教員投手のおかげでね。
島崎は…まあそうだね。10年に1度なんて周期ではじゃない。20年、30年…50年に1度の逸材だ。守備にさえ目を瞑れば、彼のような選手は私が現役の時にもいなかった。そして私が憧れていた強打者よりも強い。彼がメジャーリーグに夢を抱いてさえいなければ、日本球史に大きく名前が残ることだろう。
1000本塁打だって夢じゃない。…いや、それは無理か(笑)。とにかく、彼にはそれ思わせるだけの可能性を感じさせてくれるんだ。
それと反対に田中は…伸びしろじゃないね、確実性を思わせてくれる。プロ1年目のプレッシャーも、30歳には関係が無いようだ(笑)。
彼みたいな経歴は非常に珍しいね。それだけに苦労も多かった事だろう、それらが全て彼の投げる球にのしかかって、あれだけ打者に嫌われる投手となったんだろうね。
彼のスタイルと年齢を考えると…そうだね、あまり先は長くないかもしれない。ほんの一瞬だけ光を放ち、やがて闇に消える花火のような存在だろう。ただ、今のプロ野球に必要なのはその花火となるような、記憶に残る選手だ。そういう意味で、僕の中では彼の評価は高いよ。本人がこの記事を読むと「俺はもっとやれますよ」って怒られるかもしれないけど(笑)。
島崎と田中、この2人をドラフトで獲得した我らが広島は凄いよ。私を獲得した時から、スカウトの目は死んでないということです(笑)。
今週はいちサーディンスファンとしての感想しか言えなかったけど、来週からはもっと具体的な批評をしていきたいと思います。
それじゃ、頑張れ!広島サーディンス!
7月26日 広島サーディンス広報誌
-鐘ケ江悠次郎(54)
打率.298、2078安打 478本塁打
オールスターが終わった後の姫路球場は静まり返っていた。外野に生えた芝生席の方から手柄山の展望台が見える。田中道久は山の頂に光る点を見つめながら、先程までの余韻に浸っていた。
グラウンドキーパーがマウンドを慣らしている。2時間ほど前に俺が投げた跡は綺麗見事に消え去ってしまい、電光掲示板も明かりを灯していなかった。蒸し暑い夏の夜に、冷たい心を感じさせられる。
「お疲れ様」
聞き慣れた優しい声が田中の耳に入ってきた。斜め後ろに顔を向けると妻の菜穂が微笑みながら立っていた。ガラスもののように大事に抱えられている浩太はこちらに背を向けてスヤスヤと眠っている。
「…寝てもたか」
「ええ、あなたが投げる前から」
菜穂はクスッと微笑むと、田中の側に腰掛けた。出産をして少し肉付きが良くなっているがさほど気にする程では無い。むしろ母親にピッタリな身体つきになっていた。
「今日は両方とも打ちまくったからな…」
「8回には9時だったもの」
電気の流れていない掲示板を見る。ついさっきまで灯っていた18対14というスコアが脳裏に焼き付いていた。
今年度のオールスター第二戦は超がつく程の乱打戦になった。時代の広島市民球場ばりに小さな姫路球場に集まったセパの英傑たちは1回から爆発し、両チーム合わせて13人の投手が費やされた。
プロ野球のスタイルは何年か周期で変化を遂げる。最近は豪速豪打が主流になっており、1番から8番までを主砲級で揃えたオールスターは野球ファンを魅了させた。
「参ったな。パリーグの方が大人しいと思っとったのに、あいつら阿呆みたいにホームラン狙うから…」
ポケットに忍ばせていたボールを手に取り左手でこねる。菜穂は不思議なモノを見るような、訝しい目つきでその様子を見ていた。
「でも、あなたが投げてからは早かったわよ」
「簡単な話だよ、連中が打ち疲れただけだ」
そうは言っても、自分の実力が効いたものだという自覚はあった。それまで流れ作業のように打球を上へと飛ばしていたパリーグ連中は、田中がマウンドに立つとすっかり大人しくなってしまった。
くさいコースの微妙に変化するツーシームに手をだして内野ゴロ。31歳の味のある投球術は、この試合で唯一の0行進を作った。
「凄いよね…。1年前まで徹夜でテストの採点をしていた人とは思えないわ」
「よせよ」
照れ隠しにボールを高く上にやる。重力にしたがって落ちてきたボールをキャッチすると小気味の良い音が響いた。
「今日、3の5の生徒と野球部の子が来てたんだよ」
懐かしむような瞳を浮かべる菜穂。夏のうだるような熱風が彼女の長髪をいたずらに泳がせた。
「ブルペンで投げてる時に見えたよ」
6回の裏の景色を思い出す。大阪フェールズの捕手、中野を相手にグラウンドと内接したブルペンで投げ込んでいるとバックネット裏に陣取っている学生の姿が目に入った。
横田、天野、佐伯、竜野、浅田、木之下… 半年近くが経って少し垢抜けた顔立ちになっていたが、確かに個々の存在を確認できた。
「あそこだったら、投げてる時も見えたんじゃないの?」
「いや、試合中はキャッチャーしか見えんかったな」
「そう…集中してるのね」
菜穂の声が風と共に遠くへと消え去っていく。2人の耳には、未だに観客の歓声が響いていた。
「…今年はいけそう?」
「ああ、今年なんて言わずに10年はいるかもな」
左腕を大きくふるい好調をアピールすると、菜穂は小さく笑った。その笑顔にはどこか不安気な気持ちがこびりついていた。
結婚して2年。元は同じ赴任先で知り合ったのだが、俺はプロ野球に飛び込み菜穂は育児休暇を貰っていて2人とも教職を一時的に離れている。2人を結びつけた職業から遠のいていることに菜穂は哀しさを感じているようだ。
「…無理と思ったら自分から手を引くから。まだ教師っていう仕事も完璧にやりきってないしな」
「良いのよ、あなたが好きなようにしてくれれば。応援するから」
芝生に手をつけていた右手に菜穂の左手が優しく触れる。それとほぼ同時に浩太が目覚め、すぐにグズりだす。
いつしかグラウンドキーパーの姿もいなくなり、姫路球場は3人だけの特等席となっていた。
妻子持ち、30歳、現役教師。
昨年の秋に行われたドラフト会議はこの選手の話題で持ちきりになった。ドラフト5位で広島サーディンスに指名された田中は連日、東京の1位指名よりも大々的に報じられた。
広島サーディンスの球団側に田中獲得がどのように動いたかは定かではない。30歳の企業選手でない田中を戦力として採ったのか、それとも客寄せパンダとしてなのか…。契約金2500万、年俸480万という数字では、球団の真意は読めなかった。
しかしそんなことは田中にとってどうでも良い事だった。2度も捨てたプロ野球への夢、年齢的に最期のチャンスを手に入れた田中はプロ入りを表明した。現役教師という厳しい身の上だったが、生徒や同僚、教育委員会の後押しもあり田中は一時的に教壇から降り、マウンドへ上がることを決意した。
そして今日、俺は球宴で投げたんだ…。風呂からあがり、寝室のベッドに寝転がりながら田中はじわじわと込み上げてくる充足感を噛み締めていた。時計は午前1時を指していたが、眠気など襲ってこない。教員時代から住んでいる姫路駅近辺のハイツはビルの間に挟まれて、窓から降り注ぐ光などなく文字通りの闇となっていた。
着メロが鳴る。こんな時間にメールするなんて無礼な奴だと思いながらベッドから降り立つ。部屋の照明を着けてからスマートフォンの液晶を覗き込んだ。
佐伯か。俺はメールの文面を見るより先に電話帳アプリケーションを開き、佐伯の電話番号をタップしていた。隣のベッドで、菜穂と浩太がバッテリーが切れたかのよう静かに眠っていた。
数回のコールで電話が繋がる。端末から聞こえる声は深夜とは思えない威勢のいい声だった。
「先生!」
「先生と違う。田中投手や」
冗談を言うと佐伯は少し笑った。少しの間を置いて、揚々とした声で話し出す。
「先生は先生ですよ。今日、お疲れ様でした」
「ああ、ホンマにお疲れやわ。せっかくぐっすり寝とったのに着メロで起きてもたやんか」
「マジですか…すんません」
「嘘や、気にすんな」
田中は窓を見る。そこに映った半透明の俺はひどく疲れていた。
「まさかこの時間に電話がかかってくるとは思ってなかったっすよ。朝起きてメール見てくれればエエと思ってたのに」
「俺はメールが苦手でね。言葉の方が言いたいことが伝わるやろ」
端末の向こうから小さな笑みが聞こえる。相変わらずの教師臭い台詞とでも思っているのだろうか。
「…今日、試合観た後にマリア病院に行ってきたんですよ」
「そうか」
田中と佐伯の端末を結ぶ空間に緊張が走る。田中は唾を飲み、佐伯の次の言葉に構えた。
「誠は元気でしたよ…気持ちの方は。先生が投げとったのもテレビで観とったそうです」
「それは良かった」
口から出る言葉とは裏腹に一抹の不安は拭えない。1年前の卒業式、車椅子で登壇した小林誠のひどく衰弱した様子が脳裏にこびりついている。
「でも、誠のお母さん曰く10月まで生きれたら御の字らしいです。早かったら8月には…」
言葉の最後はあやふやにして流れていく。田中はベッドの脇に置いていたペットボトルの水で口を潤してから小さく「そうか」と呟いた。
「すいません、まだシーズンの途中なのに不安になるような事を言って」
「気にすんな。俺も来る時は覚悟しておかな余計不安になるから」
もう一度ゆすぐ程度に水を含む。どうやら身体はかなりのスピードで水分を消費しているらしい。身近な人ーー教え子ーーの死は、それだけに心の構えが必要なのだ。
小林誠は田中が最後に受け持った3年5組の生徒であり、野球部の一員だった。熱血漢で、時に素行不良でPTA会議の議論になるような生徒だったが、野球が好きで酒や煙草には手を出さない、良いように言うと「根は真面目」な生徒だった。
そんな小林は最後の大会を前にした7月の初め、数学の授業中に倒れ救急車で国立病院に搬送された後、脳腫瘍と判断された。そこから放射線治療と化学療法が用いられ、副作用と病気の苦悩により小林はみるみる衰えていった。
そして田中が1軍に上がった頃、終末期医療の出来るマリア病院に移った。それが指す意味は、近くに死が訪れるということに他は無かった。
「…お前は最近どうなんや。大洋で上手くやれてるんか?」
これ以上の情報も無さそうなので、話題を変える。
「上手くっていうか…まあ、しんどいけどずっと野球をやってますよ」
「ベンチ入っとるか?」
「まさか!まだまだっすよ」
2人の笑い声が漏れる。佐伯は大洋大学附属播磨高校の野球部に所属している。激戦区兵庫で1番の甲子園出場回数を誇っていて、県内の有力な中学生が1年に50と入部するためベンチに入るにも並大抵の努力では叶わない。
中学の時に4番でキャプテンだった佐伯でも、その肩書きはアドバンテージにはならなかった。
「まあ諦めずに頑張れば野球で行けるとこまで行けるから、ここで腐らずに頑張れよ」
行けるとこまで…それが大学を指すのか、就職を指すのか、はたまたプロを指すのかは自分自身も分からない。とにかく少しの困難程度で物事を諦めて欲しくない、その思いは強く伝えたかった。
「うっす。3年には4番ファーストで甲子園に行きますから応援に来てくださいよ」
「今日のお返しでベンチ裏のチケットを取ってくれたら考えといたるわ」
佐伯が苦笑いを浮かべている隙に田中は三度水を含んだ。
「…じゃあ悪いけど切るな、明日早くに取材があるねん」
「ホンマですか?…なんかすいません」
「ええって。なかなか寝付けんかったし、星川先生も先に寝やがったから暇やってん」
電話の向こうで佐伯の高らかな笑い声が聞こえる。星川は菜穂の旧姓で、教え子の誼は未だに田中よりも星川と呼んでいる人が多い。
「じゃあすいません。お休みなさい」
「おう、お休み」
プーというブザー音が鳴り画面を落とした。最後の方は明るく話せたが、小林の迎えが近くなっている事は気にかけておかないとな。田中は身体を布団ごと被せ、布に顔を着けながら1人物思いにふける。
「先に寝ちゃってごめんなさいね」
隣のベッドから菜穂の声が聞こえた。枕に顔を埋めたまま答える。
「起きてたのか」
「久々の播州弁が聞こえたもの」
田中は兵庫県の姫路市に産まれ、大学を除いてずっとここで育ってきた。プロ入りの際、ガラの悪い播州弁ではウケが良くないと菜穂から矯正を強いられた。
「教え子と標準語で話すのはムリだからな。ずっと方言で喋ってたんだから」
「まあ、仕事関係以外ならいいんじゃないかしら」
ベッドと服が擦れる音が聞こえる。菜穂の方を向くと、ベッドに腰掛けて真剣な眼差しを向けていた。
「小林君の話してたでしょ」
「ああ」
電話の際、俺は一言も小林の名前を出してなかったのに雰囲気だけで小林の話と分かる辺りはさすが国語教師だな。菜穂も去年、3年5組の授業を受け持っていた。
「早くて8月だそうだ」
「そう…なのね」
菜穂の目が揺れる。
「シーズン一杯はもって欲しかったわね」
「8月9月は、追い込みの季節だからな…」
小林に死んで欲しくないというのはモチロンだが、その死という在り方が終盤戦にかけてのネックになるのも危惧される。特殊な職業ゆえ、少し酷な考えになってしまう。
「もし葬儀とかになってしまったら、あなたは出られるの?」
「登板日以外は出られるけど、投げる日は…」
続く言葉が出ない。活躍しているとはいえ、1年目のルーキーだ。日程をずらしてくれなんて大仰な事は通る気がしない。
さらに、30という年齢において活躍は今年限りかもしれない。先の短いプロ野球人生、結果は出せる時に出しておかないと…
「…ずらしてもらうよ。プロ入りの際に大きく支えてくれた人の1人だからな」
心理とは裏腹な言葉と笑顔を繕って、菜穂に背を向けてベッドに寝転んだ。その言葉自体は嘘ではない。ただ、なぜか後ろめたい。
今宵の夜はなかなか寝付けなかった。ビルの間をくぐり抜ける真夏の風がハイツの窓を危なげに揺らした。